江戸時代中期に活躍した画家です。
秋田藩士として生まれ、通称を武助、号は羽陽、麓蛙亭などがあります。
幼い頃から絵を好み狩野派を学び、浮世絵風の美人画を描いていました。
その画才が認められ、佐竹北家の当主・佐竹義躬、秋田藩主・佐竹義敦(佐竹曙山)から手厚くもてなされていました。
平賀源内が秋田藩の財政の立て直しのため、秋田を訪れた際に小田野直武の描いた絵を気に入り、マルチな才能を見せていた平賀源内は洋画特有の陰影表現を小田野直武に教え、小田野直武は日本画と西洋画を融合させた画風を確立していきました。
こうして平賀源内は3年という約束で小田野直武を江戸に連れて帰ります。
そこで小田野直武は平賀源内と親しかった杉田玄白の「解体新書」の挿絵を担当する事となり、「ターヘル・アナトミア」などの書から大量の図を写し取るなど大きく貢献したのです。
江戸に留まっている間、オランダの図書や銅版画を参考に西洋画法の研究に励んでしましたが、洋書の銅版画を面相筆で丹念に写したものを銅版画にするなど決して油彩画の作品を手掛ける事はありませんでした。
約束の月日を1年延長させ、ようやく秋田へ戻った小田野直武は、佐竹義敦(佐竹曙山)や佐竹義躬に対し絵の指導を行い、この3人が中心となって完成させたのが「秋田蘭画」「秋田派」と呼ばれる西洋画を取り入れた日本画でした。
しかし、小田野直武と関係の深かった平賀源内が殺人容疑で逮捕され、それに伴って小田野直武も無期限の自宅謹慎処分となり、「秋田蘭画」「秋田派」が大きく広がる事はなく、そのまま31歳という若さで亡くなってしまいます。
小田野直武の死因は今でも分かっていませんが、病死、政治的陰謀による切腹説など様々な説が唱えられており、謎に包まれたままとなっています。