江戸後期の南画家。
米山人の前半生についてはほとんど不明で、大坂の人とも神戸の人とも伝えるが出自などはわかっていない。
没年についても1818年75歳など、ほかの諸説
がある。
名は国、字は士彦、通称
は彦兵衛、米山人は号。
若いころには播磨神東郡剣坂村(兵庫県加西市西剣坂)の庄屋安積喜平治の下に寄食し、米をつきながら書を読んで勉学に励んだことが伝えられていたが近年、同地で襖絵などの作品、資料が発見されたことによりこれが裏づけられた。
1772~1781年の頃には大坂に出て舂米屋を営みその後1793年のころには津藩に大坂蔵屋敷留守役の下役として仕えその藩邸内に住んでいる。
絵は舶載のものを見たりしながらの独学らしく「松齢鶴算図」「竹石図」「幽亭閑居図」(いずれも個人蔵)など他の南画家にはみられないたくましさと乾いた感覚をみせ、南画史上特異な位置を占めている。
田能村竹田は、米山人が浦上玉堂
と仲が良く、その風趣も似ていたと記している。
また木村蒹葭堂らとも親しく、蔵屋敷を介する大坂特有の文化的背景
のなかではぐくまれた画家
であったといえる。