江戸時代初期に活躍した画家です。
俵屋宗達と並ぶ江戸初期を代表する大和絵絵師として有名ですが、牧谿や梁楷風の水墨画や、狩野派、海北派、土佐派など様々な流派の絵を吸収し、独自の様式作り上げ浮世絵の源流を作った人物として評価されています。
摂津国河辺郡伊丹の有岡城主・荒木村重の子として生まれた岩佐又兵衛は、何不自由なく暮らしていました。
父・荒木村重は織田信長の家臣でしたが、織田信長への反逆を企て、失敗した事により一族のほとんどの者が命を奪われた中、幼かった岩佐又兵衛は乳母によって逃げ延び、石山本願寺に保護されました。
こうして母方の岩佐姓を名乗って隠れるように暮らしていましたが、織田信長が明智光秀によって討たれると、織田信長の息子・織田信雄に近習小姓役として仕えるようになります。
しかし、小田原攻めの後に豊臣秀吉の怒りをかった織田信雄が改易(領地を没収)され、浪人となった又兵衛は、岩佐勝以(いわさかつもち)を名乗り、京都で絵師として活動を始めました。
大坂の陣の直後の40歳の頃、福井藩主・松平忠直に招かれ北庄に移住した岩佐又兵衛は、松平忠直が流刑にされてもこの地に留まり、20年ほど過ごしました。
その後、2代・将軍徳川秀忠の招きで3代・将軍徳川家光の娘・千代姫が尾張徳川家に嫁ぐ際の婚礼調度制作を命じられ、江戸に移り、江戸で亡くなりました。
このように数奇な人生を歩んだ岩佐又兵衛の作品は高く評価されている物が多く、牛若丸を題材にした「山中常盤絵巻」は岩佐又兵衛が得意とした人物表現の特色が表れており、たくましい肉体を持ち、バランスを失するほど極端な動きを強調する独自の画風を見る事ができます。
また、「山中常盤絵巻」の修羅場の場面では「激しくも妖しい」と評価されるほど母を殺された牛若丸の憎しみと血に染まる世界を描き出しています。
「山中常盤絵巻」の他にも「浄瑠璃物語」「堀江物語」「小栗判官」などの絵巻も残していますが、これらに全て共通するのは愛と復讐の物語という部分で、岩佐又兵衛が幼い頃に受けた深い心の闇を映し出しているのではないかと言われています。