江戸時代の武士、播磨国赤穂藩の筆頭家老、赤穂事件の浪士47人の中心人物。
幼名は松之丞、元服して喜内と名乗る。通称は内蔵助。
1659年、播磨国(兵庫県)赤穂藩家老の大石家の長男として生まれる。1673年に父が逝去したため、祖父の養子となる。1677年、19歳の時に祖父も逝去したため、その遺領1500石と内蔵助の通称を受け継ぐ。また赤穂藩の家老見習いになり、79年、21歳で正式な筆頭家老となる。1686年に豊岡藩京極家筆頭家老の娘・りくと結婚する。
1701年、東山天皇の使者とし江戸へ下向する予定の勅使たちの接待役を赤穂藩主・浅野内匠頭長矩(あさの・たくみのかみながのり)が務めることになっており、この接待指南役に高家筆頭・吉良上野介義央(きら・こうずのすけよしなか)があたっていた。3月14日、江戸城で勅答の儀が執り行われる直前、江戸城松之大廊下にて浅野長矩が吉良義央を負傷させるという刃傷事件が起こった。将軍徳川綱吉はこれに激怒し、長矩を大名としては異例の即日、切腹に処し、浅野家の断絶・城地没収を決めた。一方、義央には何のお咎めもなかった。これが赤穂事件の始まりである。
3月19日、事件の報が赤穂に伝えられる。筆頭家老・大石良雄以下の300人の家臣が城中に集まり、開城か、徹底抗戦かを巡り議論。こうした中、良雄は城を明け渡した上で、長矩の弟・浅野長広を立てて浅野家再興を嘆願し、また吉良義央の処分を幕府に求めていくことで議論を統一する。そして藩の藩札・借金などの処置にも努めたり、藩士に対する分配金の不満が出ないよう配慮するなど、家中の分裂の危機を回避することに心を砕いた。6月25日の長矩の法要を終えると、山城(京都府)の山科に移った。
1702年7月、長広の浅野本家預けが決まり、お家再興の望みが消える。これを受け、良雄は京都円山に同志を集め吉良邸討ち入りの意思を確認する。10月7日、江戸へ下向する。12月15日未明、47人の赤穂浪士は本所の吉良屋敷に討ち入り、2時間近くの激闘の末に義央を探し出し、これを討ち果たす。
討ち入った浪士たちは、幕府により細川、久松、毛利、水野の4家に分かれて預けられ、翌1703年2月4日に一人の足軽を除き46人は切腹。遺骸は長矩の墓の傍に葬られた。
良雄の辞世は「あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし」。享年44歳だった。
討ち入り後、吉良家は断絶したが、浅野家は500石の旗本として再興した。浪士たちは義士としてたたえられ、事件全体も「忠臣蔵」として、現在に至るまで彼らの心は賞賛され続けている。