上村松篁は花鳥画を得意とする日本画家で、本名を信太郎といいます。
上村松園の長男として生まれた松篁は京都市美術工芸学校を卒業後、京都市立絵画専門学校に進み、入学と同時に西山翠嶂に師事しています。
翠嶂に師事したのは母親である松園のアドバイスでもあったそうです。
「将来、松篁は風景や人物も描くことになるかも知れない。西山さんは風景も人物も、花鳥も何でも描ける人だから、そこで勉強しておけば......。」という助言に従い、松園と同じ、栖鳳の門下であった翠嶂に師事することになりました。
翠嶂の設立した画塾、青甲社(しょうこうしゃ)では松篁の入塾当時、40人程の塾生が学んでいました。
青甲社では毎月研究会を開き、個々の作品を持ち寄ってお互いに批評し、画稿を持参して先生からの助言を得たりと、松篁にとって重要な学び場となっています。松篁の他にも青甲社で学んだ画家は多く、堂本印象や中村大三郎、沢宏靱、秋野不矩などがおりました。
松篁は母親である松園の画風にも少なからず影響を受けていますが、やはり直接師事した翠嶂の画風の影響が色濃く反映され、美人画よりも花鳥画を得意としています。
1921年の第3回帝展に「閑庭迎秋」で初入選を果たすと、1928年の帝展では特選を受賞、その後新文展などへの出品も行いました。
第二次世界大戦後、官展の流れを汲む日展などの画壇では自由な作品制作が出来ないとして、松篁は秋野不矩、福田豊四郎、山本丘人、小松均などの有志で創造美術という団体を結成します。
1948年「我々は世界性に立脚する日本絵画の創造を期す」という宣言で設立した創造美術は後に、新制作協会日本画部と改名し、現在は社団法人創画会となっています。
松篁は近代的な構成を持つ新しい花鳥画作品を生み出す一方で、母校である京都市立絵画専門学校での後進指導などにあたり、その多くの功績を認められ、1984年文化勲章を受章しています。
文化勲章は母である上村松園も受賞したことがあり、史上初となる親子二代にわたる文化勲章受章者となりました。
作品では伝統的な写生に根差しながらも、現代的な色彩感覚を取り入れた格調高い花鳥画を得意とし、数多くの名作を残しています。
彼は写生の中でも鳥の写生に対して強いこだわりがあり、鳥の生活を理解する観察のためにインドやオーストラリア、東南アジアを旅行したこともありました。
また、自身のアトリエにも大規模な鳥小屋を構えており、1000羽を超える鳥を飼い、生涯観察を続けていたそうです。そのため、鳥や動物の描写は特に繊細で観る者を強く惹きつけます。