【会津八一(會津八一)】買取作家・取扱い一覧 掛軸・書画・版画

会津八一(會津八一)

会津八一(會津八一)
会津八一(會津八一)(1881~1956)
新潟県出身の歌人、美術史家、書家です。
秋艸道人(しゅうそうどうじん)や渾斎と号して活動をしていました。
奈良の仏像を語る上では会津八一の歌なしに語れないと言われるほど、奈良の仏教美術への関心が深く、生涯に渡って奈良へは何度も足を運んでいます。
また、書家としても優れた才能を見せており、独自の境地を書跡集「遊神帖」などで見る事ができます。

中学生の頃から万葉集や良寛の書に興味を持っていた会津八一は、新潟尋常中学校を卒業すると上京し、東京専門学校(現・早稲田大学)に入学します。
卒業する頃には東京専門学校も早稲田大学と名称を変更しており、英文科を卒業しました。
卒業後は新潟へ戻り、私立有恒学舎の教員をつとめるかたわらで俳句や和歌を制作していましたが、坪内逍遥の招きで早稲田中学校教員となると再び上京し、美術史などを教えるようになります。
その一環として初めて奈良を訪れた会津八一は生涯にわたり大和一円の仏教をはじめとする古美術研究をライフワークとする事を決意し、東京へ戻ってからも早稲田大学の教授の仕事をこなすかたわら、しばしば奈良へ足を運びます。

そんな会津八一ですが、初めて奈良を訪れる前から奈良は特別な場所として考えており、会津八一に奈良の魅力を教えてくれたのは井原西鶴の再評価に力を尽くした淡島寒月で、その出会いは会津八一が24歳の時でした。
また、この頃は故郷新潟の私立有恒学舎に英語教師として赴任する事が決まった時で、相思相愛の恋人を東京に残しての赴任であったため、寂しさを紛らわすために奈良への憧れを歌に託し、消え入りそうな恋の炎を必死に燃やし続けました。
ちなみにこの恋は成就する事なく、会津八一は生涯独身を貫き通しています。
こうして、奈良に何度も赴いた事で仏教美術史の研究をまとめる事となり、「法隆寺・法起寺・法輪寺建立年代の研究」という論文で学位を受け、早稲田大学文学部に芸術学専攻科が設置されると主任教授に就任し、より研究に励み、奈良を訪問するたびに和歌を詠み多くの短歌を残していました。

妥協を許さぬ人柄から孤高の学者として知られていた会津八一ですが、同僚であった津田左右吉が右翼から攻撃された際は、早稲田大学の教授たちが行動を起こさなかったのに対して署名運動に参加し、津田左右吉の無実を訴えたというエピソードが残されています。

会津八一(會津八一)年表


1881年 新潟県で生まれる
1887年 新潟市西堀小学校に入学する
1895年 新潟県尋常中学校に入学する
1899年 万葉集や良寛らの歌を愛読する
1900年 新潟県尋常中学校を卒業する
1901年 「東北日報」「新潟新聞」の俳句選者となる
1902年 東京専門学校高等予科に入学する
1903年 早稲田大学文学科に入学し、英文学を学ぶ
1906年 早稲田大学文学科を卒業する
新潟県中頚城郡板倉村有恒学舎の英語教師となる
1910年 坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校の英語教師となる
1913年 早稲田大学英文科講師を兼任する
1918年 早稲田中学校教頭となる
1925年 早稲田中学校を辞職、早稲田大学附属高等学院教授となり、英語を担当する
1926年 早稲田大学文学部講師となり、東洋美術史を講義する
1931年 早稲田大学文学部教授となる
1934年 文学博士の学位を受ける
1938年 早稲田大学文学部に芸術学専攻科を設置され主任教授となる
1945年 早稲田大学教授を辞任する
1946年 「夕刊ニイガタ」創刊にともない夕刊新潟社の社長となる
1948年 早稲田大学名誉教授となる
1950年 新潟日報社の社賓となる
1951年 新潟市名誉市民に推挙される
1953年 宮中歌会始の儀に召人として臨席する
1956年 11月21日、冠状動脈硬化症により75歳で逝去

1881年 新潟県で生まれる

1887年 新潟市西堀小学校に入学する

1895年 新潟県尋常中学校に入学する

1899年 万葉集や良寛らの歌を愛読する

1900年 新潟県尋常中学校を卒業する

1901年 「東北日報」「新潟新聞」の俳句選者となる

1902年 東京専門学校高等予科に入学する

1903年 早稲田大学文学科に入学し、英文学を学ぶ

1906年 早稲田大学文学科を卒業する

00000年新潟県中頚城郡板倉村有恒学舎の英語教師となる

1910年 坪内逍遙に招かれ、早稲田中学校の英語教師となる

1913年 早稲田大学英文科講師を兼任する

1918年 早稲田中学校教頭となる

1925年 早稲田中学校を辞職、早稲田大学附属高等学院教授となり、英語を担当する

1926年 早稲田大学文学部講師となり、東洋美術史を講義する

1931年 早稲田大学文学部教授となる

1934年 文学博士の学位を受ける

1938年 早稲田大学文学部に芸術学専攻科を設置され主任教授となる

1945年 早稲田大学教授を辞任する

1946年 「夕刊ニイガタ」創刊にともない夕刊新潟社の社長となる

1948年 早稲田大学名誉教授となる

1950年 新潟日報社の社賓となる

1951年 新潟市名誉市民に推挙される

1953年 宮中歌会始の儀に召人として臨席する

1956年 11月21日、冠状動脈硬化症により75歳で逝去


会津八一(會津八一)代表作

代表的な歌

『かすがの に おし てる つき の ほがらか に 
あき の ゆふべ と なり に ける かも』

『すゐえん の あま つ をとめ が ころもで の
ひま にも すめる あき の そら かな』

『あたらしき まち のちまた の のき の は に
かがよふ はる を いつ と か またむ』

書
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