江戸時代に活躍した日本画家です。
本名は信香、安雄といい、画名を多賀朝湖(旧姓)といいました。
通称は治右衛門、助之進といい、別号に朝湖、牛麻呂、一峰山人、一閑山人、旧華堂、狩林斎、北窓翁、旧艸堂など多数あります。
伊勢亀山藩の侍医(藩お抱えの国許の医師)・多賀伯庵(たが はくあん)の息子として生まれ、何不自由なく暮らしていましたが、一家で江戸に移住する事になりました。
江戸で絵描きの才能を認められ狩野安信に入門しますが、わずか2年で破門されてしまいました。
その後は多賀朝湖という名で「狩野派風の町絵師」として活躍する一方、暁雲の号で俳諧に親しみ、俳人・宝井其角、松尾芭蕉と交友を持つようになり、書道は玄竜門下に学び、名を江戸中に知られるようになりました。
吉原遊郭通いを好んでお客として楽しむ一方で、自ら幇間(別名:太鼓持ち。宴席やお座敷などの酒席において主や客の機嫌をとり、自ら芸を見せ、さらに芸者・舞妓を助けて場を盛り上げる職業)として活動し、その話術・芸風は、豪商の於大尽(おだいじん)や大名の殿様すらもついつい財布を緩めてしまうほど見事な芸だったそうです。
しかし、第5代将軍徳川綱吉による生類憐みの令に違反した為、三宅島に流罪となってしまいました。
配流中の罪人には親族からの仕送りが許されていて、その中には必ず絵具を要求し、江戸に残した家族(母)の家計のために絵を描き続けました。
乏しい画材を駆使しての創作活動でしたが、江戸の風俗を見てきたように活き活きと描いたり、島民の求めに応じて描いた多数の縁起絵などが描かれ、素晴らしい作品を残しています。
また、この時期に描かれた作品を島一蝶と呼ばれています。
そして、将軍が代替わりをしたのを記念した大赦によって釈放され12年ぶりに江戸に戻る事になり、その後は深川宜雲寺で市井の風俗を描く人気絵師として数々の大作を手がけ、吉原での芸人活動も続けたそうです。