幕末―明治期における思想家、教育家。慶応義塾の創始者。
1835年、大阪堂島の中津藩士の次男として生まれる。翌年中津(大分県)に帰り、漢学を学ぶ。19歳の時、長崎にでて蘭学を学び、翌年大阪にでて、蘭学者・緒方洪庵の適塾で学び、1857年(22歳)で塾頭になる。58年には藩から江戸に出仕が命じられる。江戸では藩屋敷内に「一小家塾」という蘭学塾を開いた。これが後の「慶応義塾」の始まりとなった。
1859年に横浜に行き、外国人居留地では専ら英語が使われており、これからの時代は英語が必要だと痛感するようになる。同年、日米修好通商条約の批准交換のための使節団に同行。1862年には遣欧使節団にも加わり、仏、英、独、蘭など7か国を訪問し、西欧の法律・議会制度などについて学ぶ。帰国後に「西洋事情」を著わす。この頃から明治維新まで外交文書や兵学書などの翻訳係として多忙を極める。1867年に再び渡米し、辞書や物理書など大量の書物を購入した。帰国後、「西洋旅案内」を著わす。翌68年には蘭学塾を「慶応義塾」と名付け教育活動に専念する。また幅広い要人との交流や門下生を政府に投入するなどして、分権論、憲法・国会論、教育論など新しい制度の骨格作りに大きな影響力を発揮した。
明治新政府に出仕の要請があるものの、これを断り、以降は義塾の運営と啓蒙活動に専念する。37歳になった1872年には、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という「学問のすゝめ」(初編)を刊行した。1876年の第17編まで約340万部が発行されたという。その後も時事、社会、婦人問題など幅広い分野で数多くの著作を刊行し、啓蒙思想を広めた。