臨済宗中興の祖と称される江戸中期の禅僧で、書画にも優れた才能をみせ、多くの作品を残しており、その数は1万点以上に及ぶといわれています。
その作品は独学で得た技法を用いており、強烈な個性を発揮した独自の世界観を持っています。
海外でも展覧会が開かれており、連日1000人以上の人が訪れ、テレビで取り上げられる程の大盛況でした。
そんな白隠慧鶴ですが、「白隠」は道号、「慧鶴」は法名で、名を岩次郎といい、3歳まで自力で立つ事ができなかったと伝えられています。
身体的に成長が遅かったのですが、暗記力が優れ、感受性も強かったため、母親と共に寺へ行った際はその時の説法を覚えて帰り、家の使用人たちに聞かせていたそうです。
こうしてだんだんと出家をしたい気持ちが大きくなり、父と母の許しを得て15歳で出家します。
しかし、修行を重ねるごとに出家した事を後悔するようになります。
そんな時に手にした一冊の本「禅関策進」に書かれていた事に感銘を受け、自分の堕落した気持ちを深く反省し、修行に打ち込むようになります。
様々な修行を積みましたが、激しい修行を続けていたせいで「禅病」と呼ばれる病にかかってしまいます。
この病に向き合い、治す治療法を考案し、のちに多くの若い修行僧を救う事となりました。
その後、地元に帰り布教を続け、曹洞宗、黄檗宗と比較して衰退していた臨済宗を復興させ「駿河には過ぎたるものが二つあり、富士のお山に原の白隠」とまで謳われるほどになりました。
この時に広く民衆への布教につとめており、その過程で禅の教えを表した絵を多く描いたとされており、その中でも達磨図は多く用いた画題でした。