明治期の日本画家
。
江戸木挽町の狩野勝川
院邸内に、川越藩御用絵師橋本晴園の子として生まれる。
幼名千太郎のち長卿。
1846年狩野晴川院養信に入門、生涯
の友狩野芳崖とは同日
の入門であった。
まもなく養信が没したため狩野勝川院雅信に師事、芳崖と共に勝川門の二神足と称された。
1854年塾頭
となったのち1860年独立する。
明治維新後,1871年から1886年まで海兵兵学寮に出仕、ウィーン万博出品の日本全国地図などを制作する一方、明治初年には「水雷命中」などの油絵も描いている。
フェロノサにより1884年に組織された鑑画会に参加、新日本画創作運動の中心作家のひとりとして活躍した。
こうした鑑画会関連作品のいくつかが、現在ボストン美術館やフィラデルフィア美術館、フリア美術館に収蔵されている。
フェノロサと岡倉天心によって設立された東京美術学校(東京芸大)では、1888年雇、1889年 教諭,1890年教授となったが、1898年東京美術学校騒動に際して同校を辞職。
日本美術院創立
では主幹
となり、以後、野に下った天心を支え続けた。
この間1890年帝室技芸員となり、内外
の博覧会で常に高賞を受賞
。
日本画新派
の作家としてだけでなく、画壇
の大家としての地位
を築いている。
門下に川合玉堂ら多くの俊秀を育成、教育者としても優れた資質を発揮したほか、古社寺保存会委員を務めるなど、古美術保護にも尽力した。