1877年 12月28日父順蔵(穂庵)、母せつの四男として秋田県角館町横町に生まれる。
1890年 角館高等小学校を卒業。父から絵の基礎を学ぶ。父、死去。享年46歳。
1891年 百穂と画号をつける。
1897年 東京美術学校日本画科選科に入学。
1899年 東京美術学校を卒業。
1904年 太平洋画会研究所夜間部に通いデッサンを学ぶ。この頃より本の装丁をする。
1907年 徳富蘇峰の「国民新聞社」に入る。
1908年 桂月、鳥谷部春汀らと十和田を清遊する。
1911年 羽仁もと子の「婦人之友」の表紙画を描き始め、約20年間続ける。
1914年 文展に「七面鳥」出品、三等賞。
1915年 短歌の指導を斎藤茂吉から受ける。
1917年 第11回文展に「豫譲(よじょう)」を出品、特選 名声いよいよ高まる。
1918年 「百穂画集」を刊行。
1919年 東京世田谷三宿(みしゅく)に画室を建て、「白田舎(はくでんしゃ)」と名付け塾生をおく。
1923年 角館に中学校誘致の運動に中心となり奔走する(翌年開校)。
1929年 新設の帝国美術学校(武蔵野美術学校と多摩美術学校の前身)の教授になる。
1930年 秋田蘭画の研究をまとめた「日本洋画の曙光」を刊行。
1932年 東京美術学校教授に任命される。
1933年 脳溢血で倒れ、10月30日死去。享年56歳。