福岡県出身の明治~昭和時代前期に活躍した詩人、歌人、童謡作家です。
生涯に数多くの詩歌を残し、今なお歌い継がれる童謡を数多く発表する近代日本を代表する詩人として有名です。
生家は江戸時代以来栄えた商家で海産物問屋をやっており、本名を北原隆吉といいます。
火事で北原家の財産が傾きかけていてもおかまいなしに文学に熱中していた北原白秋は同人雑誌に「白秋」の名で詩文を掲載していました。
長詩『林下の黙想』が詩人・河井醉茗に賞賛され、『文庫』4月号に掲載されると父親に無断で中学を退学し、早稲田大学英文科予科に入学します。
若山牧水と親しく交友を深め、この頃、号を「射水(しゃすい)」としていた北原白秋は、若山牧水と同じく友人の中林蘇水と合わせて「早稲田の三水」と呼ばれていました。
『全都覚醒賦』が早稲田学報懸賞一等に入選すると北原白秋は新進詩人として注目を浴びるようになります。
こうして新詩社に参加し、与謝野鉄幹、与謝野晶子、木下杢太郎、石川啄木らと知り合うなど文壇の交友を広めていきました。
後に新詩社を脱退し、木下杢太郎を介して、石井柏亭らのパンの会に参加するなど活躍を見せますが、実家がついに倒産し、帰郷を余儀なくされます。
その後、第二詩集『思ひ出』刊行し、故郷柳川と破産した実家に捧げられた懐旧の情が高く評価され北原白秋の名はさらに高くなっていきました。
そんな中、隣家で夫と別居中であった松下俊子と恋に落ち、2人は俊子の夫から姦通罪により告訴され、未決監に拘置されてしまいます。
その後、弟らの尽力により釈放された和解が成立し、告訴は取り下げられましたが、それと同時に人気詩人の名声も下がってしまいました。
それでも松下俊子と結婚し、第三詩集『東京景物詩及其他』などを発表しますが、極貧生活から抜け出せず、俊子と離婚する事になります。
その後、詩人・江口章子と結婚し、各地を転々と移り住みますが、この頃の生活は更にどん底で北原白秋の詩境も沈潜する一方でした。
鈴木三重吉児童文学雑誌『赤い鳥』が創刊され、童謡部門を担当する事になった北原白秋は創作童謡を次々発表し、全国のわらべ歌の収集に力を尽くすなど童謡詩人としての活動が目立つようになり、生活も安定していきました。
その一方でこれまで着物を売るなど極貧生活を支えてきた章子とは、不貞を疑い離婚する事となり、佐藤菊子と結婚した事でようやく家庭的な安定を得る事ができ、遠ざかっていた歌作にも意欲を吹き返し、門人の指導にも力を注ぎました。