山形県出身の昭和時代から平成時代に活躍した日本画家です。
日本画壇がそれまでの水墨画から脱皮し、色彩を多用した背景も描くという新しい試みを始めた活発な動きの中でデビューし、故郷の蔵王や月山をはじめ、山岳風景や樹木、巨木をモチーフに緻密な描写によって前景から背景まで分厚く塗る事により自然の力強さを表現し、冬を描いた作品では過酷さが伝わり生命力溢れる作品を残しています。
また、愛知県立芸術大学で教授、東北芸術工科大学の名誉教授をつとめ、今野忠一の画塾では多くの日本画家が輩出されるなど後進の指導にも力を注いていました。
はじめは南画家・後藤松亭に入門して「松石」と号していた今野忠一ですが、同じ山形出身の日本画家・高嶋祥光を頼って上京し、児玉希望の門人として写実的な風景画を学びました。
この時の号は「欣泉」を用いており、彫刻家・新海竹蔵と出会うと郷倉千靱の草樹社に入塾し、「忠一」と号すようになり花鳥画に取り組んでいました。
院展で活躍を続け、数々の賞を受賞するようになると、画風も花鳥画から風景画へと変化していき、主に山岳風景を題材にした写実と心象が深く融合する深遠な画境を展開するようになります。
また、『中央公論』の表紙絵や三島由紀夫の『金閣寺』の装幀をつとめており、日本画壇の重鎮として第一線で活躍し続けました。