明治~大正時代に活躍した日本画家です。
型にはまっていてつまらない旧派の作風に張り合って、斬新な写実表現で新日本画の開拓に力を注ぎ、日本画と洋画を区別する考え方は偏っていると油彩画も描き残しています。
また、尾崎紅葉や小杉天外の小説の挿絵や雑誌の口絵を手掛け、梶田半古の描いた女学生の髪型や着物の着こなしは、当時の若い女性たちの憧れの的であり、「半古の女学生」という言葉が生まれました。
ちなみに挿絵を手掛けた尾崎紅葉の弟子で小説家の北田薄氷は、梶田半古の2番目の妻である事も有名で、夫を支えながら自身も様々な小説を書き続けましたが、結核に侵され25歳という短い生涯を終えました。
彫金師の梶田政晴の長男として東京下谷御徒町で生まれた梶田半古は本名を錠次郎といいます。
家は代々幕府の鷹匠をつとめていましたが父親は彫金を生業としており、家業を弟が継ぎました。
一方、梶田半古は幼い頃から画才に優れていたため、下谷練塀尋常高等小学校を卒業してからは苦しい家計を助けるために、早朝から深夜まで輸出品の団扇・扇子やハンカチーフに絵を描いて問屋へ運ぶ生活を送っていました。
13歳の時、浮世絵師で楊洲周延の弟子である鍋田玉英に師事して本格的に画を学んでいましたが、眼病により絵画修業を中断し、琴や月琴で身を立てようとしましたが、病は一年ほどで治り、再び画家としての道を歩み始めます。
15歳になると南画家・石井鼎湖に師事しますが、今度は父親が亡くなり、家族を養うために松尾儀助らが横浜で設立した日本の工芸品輸出会社の起立工商会社で、工芸品の下絵に従事する事にしました。
ここでは同僚に鈴木華邨がおり、画について教えを受ける事ができ、鈴木華邨から菊池容斎の木版画集「前賢故実」を紹介され、全図を暗記するほどまでに模写を続け、独学で人物画を習得しました。
こうして東洋絵画共進会で褒状を受けるという成果を手にした梶田半古は、画家として本格的に活動を始めるようになります。
日本画の革新を目指す日本青年絵画協会の結成に発起人の一人として参加し、日本美術院が創立された際は特別賛助会員として活躍を見せます。
しかし、文展開設後は健康状態の悪化により、以前のような活躍は見られず、一時回復の兆しが見えましたが、再び重体となり弟子たちに見守られながらこの世を去りました。
ちなみにその弟子たちは小林古径、前田青邨、奥村土牛、新井勝利、夏目利政、山内神斧、高木長葉など、後の日本画壇の中心的存在として活躍する者ばかりで、梶田半古が残した功績は今でも高く評価されています。