幕末~明治時代初期にかけて活躍した日本画家です。
本名は量平または武保といい、旧姓は河原といいました。
幕府西丸の御徒・河原専蔵武吉の次男として、江戸下谷長者町で生まれました。
幼い時から絵を描くのが好きだったが、画を学ぶ事を父から許されず、画家への道をあきらめかけた16歳の時、両親を描いた肖像画が見た父が感動し、画家になる事を許されました。
高田円乗に師事し狩野派の画技を学び、らに土佐派、中国、洋画等、当時の画風を研究し、円乗の死後は師につかずその教えを守り、自分の画風を確立していきました。
父は菊池家から養子に来た人で、28歳の時に父の生家が断絶してしまい、系図によると南朝遺臣の菊池武時の後裔であった為、妹に婿養子を迎えさせ、河原家を継がせ、自分は菊池家を継ぎ、その頃から菊池武保と名乗るようになりました。
また、明治天皇より「日本画師」の号を賜るなど、明治日本画の歴史画に大きな影響を与え、弟子を通してのちの再興日本美術院を背負う俊秀を輩出しました。