埼玉県出身の大正~昭和時代にかけて活躍した日本画家で、挿絵画家、装幀家としても活躍し、版画もよく残した事から版画家としても評価されています。
小説家・泉鏡花をはじめ、村松梢風、野村胡堂などの作品の挿絵も担当し、名作として世に残しました。
幼くして父親が病気で亡くなった小村雪岱は本名を泰助といいました。
母親は父親が亡くなった時に若く、まだ未来があると離縁させられたため、幼くして両親を失い伯父・小村万吉に育てられる事になりました。
その後、神保町に住む叔母の家に寄宿するようになると画家を志すようになり、日本画家・荒木寛畝に師事します。
東京美術学校では下村観山教室で古画の模写、風俗考証を学んでおり、日本画の基礎を固めていきました。
挿絵画家として有名な小村雪岱ですが、福岡医科大学の久保猪之吉が上京してきた事が小村雪岱の挿絵画家としての運命を定める事となります。
久保猪之吉夫妻は歌川豊国の絵の模写を頼んでおり、それを宿まで届けに行った際、小説家・泉鏡花が久保猪之吉のもとを訪問する事を知り、泉鏡花の小説を愛読していた小村雪岱は再び宿を訪れ泉鏡花と知り合う事になりました。
この時に挿絵の仕事を依頼される事はなく、泉鏡花から挿絵の仕事を依頼されるのはもう少し後になってからとなりました。
ちなみに「雪岱」の号は泉鏡花から受けたもので、養父の安並賢輔が亡くなってからは「安並家」を継いでおり、仕事では小村姓を名乗って小村雪岱として活動していました。
その後、岡倉天心らがおこした國華社に入社するとそこで仏画や古画や絵巻物や浮世絵を版下にする仕事をこなしていました。
そんなある日、泉鏡花から「日本橋」の装幀の依頼を受け、5枚の連作として表紙から裏見返しまでの制作を行いました。
この仕事をたいそう気に入った泉鏡花は、これまで装幀や挿絵を担当していた鏑木清方よりも小村雪岱に依頼する方が多くなっていきました。
こうして長年にわたって泉鏡花の装幀や挿絵を担当し、他の作家たちからも依頼を受けるようになると資生堂に入社し、化粧品広告を手掛けるなど画家としての地位を築きあげました。
一方、舞台美術の分野でも活躍しており、菊池寛の「忠直卿行状記」から舞台装置の世界で独自の感覚を発揮し、「一本刀土俵入」「大菩薩峠」など数多くの作品を手掛け、溝口健二の映画美術の担当なども引き受けるようになります。
ついには役者からも注目される存在となり、6代目尾上菊五郎は小村雪岱を独占し、ほとんどの舞台をお願いしたそうです。
小村雪岱が手掛けた舞台意匠の多くは現在の歌舞伎や日本舞踊の場面に踏襲されています。