山梨県出身の大正~昭和時代に活躍した日本の水墨画、漫画家です。
本名は浩(こう)といいます。
近藤家は江戸時代に南部宿の本陣を務めた家柄で、父は幼少時に病没していますが、祖父の喜則は初代県会議長を務めたほか地元で私塾を営んでおり、裕福な家庭に育ちました。
そんな祖父は医者になることを期待して英語学校や予備校へも通わせましたが、文芸誌への投稿や俳句など文芸活動に熱中し、画家を志すようになり洋画家・和田英作の白馬会研究所に所属し、東京美術学校西洋画科へ入学しました。
卒業後は文展に出品する傍ら、読売新聞社に入社して漫画や挿絵を担当するようになり、朝日新聞記者であった岡本一平と双璧で「一平・浩一路時代」と呼ばれ、徐々に名前が売れ始めるようになりました。
小川芋銭や平福百穂らが主宰する珊瑚会に参加するようになり、洋画から日本画へ転向し、院展で活躍するようになり、フランスに留学するなど更に画技に磨きをかけ水墨画へ移行し、洋画~日本画~水墨画と次々と画風を模索した結果、生み出されたものが従来の水墨画では描かれていなかった木漏れ日や外光といった潤いを見事に表現して、基の風景の持つ魅力を損なわず描写するといった三位一体の作品を制作するようになり、画風を確立させていきました。
個展を中心に高い評価を得ていますが、一方で「孤高の画家」「異色の水墨画」といった異端的評価もされています。