幕末・明治期にかけての幕臣、政治家。日本海軍の生みの親と評される。
1823年、旗本の勝家に生まれる。幼名は麟太郎、本名は義邦、維新後改名して安芳。海舟は号である。
剣術は直新陰流の免許皆伝の腕前を持つ。蘭学の勉強にも励み、1850年には蘭学塾を開くようになる。この年に海軍伝習生頭役(とうやく)として長崎に赴任しオランダ士官より航海術を学ぶ。1860年には遺米使節団の随行艦「咸臨丸」の艦長として太平洋を横断した。帰国後、幕政改革によって軍艦操練所頭取を経て軍艦奉行に就任した。63年には神戸海軍操練所を開設し、幕臣ばかりでなく坂本龍馬など志士など広く人材を集め、「日本の海軍」を目指した訓練を行った。2年後に免職となるが、その間、維新で活躍した木戸孝允、西郷隆盛らと接触し、彼らに大きな影響を与えた。
1866年、軍艦奉行に再任され、第二次長州征伐の停戦交渉をまかされる。その後、官軍の東征が始まると、幕府側の軍事面の責任者として主戦派の幕臣をなだめ、新政府側の西郷隆盛と会談し、歴史的な江戸城の無血開城を実現した。
維新後は、旧幕臣の代表格として兵部大丞(ひょうぶだいじょう)、海軍大輔(たいふ)、参議兼海軍卿、元老院議官、枢密院顧問官など歴任した。またと徳川慶喜を明治政府に赦免されるよう尽力もした。
晩年には「海軍歴史」「陸軍歴史」「吹塵録」など著した。