山口県(長州藩)出身の明治期の政治家、長州藩の志士で、長州藩のリーダーとして時代の先端に立って活動を続け、明治新政府においてもトップの一人として近代国家・日本の建設に大きな役割を果たした人物として有名です。
西郷隆盛、大久保利通と並んで「維新の三傑」と称され、維新の十傑の一人とされています。
また、剣術の腕も長けており、桂小五郎の名で知られています。
長州藩の医師・和田昌景の息子として生まれた木戸孝允ですが、病弱であった事から長く生きられないとされ、7歳の時に向かいの桂家から養子縁組の話が舞い込んできました。
桂家は150石の武家で、その当主である桂九郎兵衛は病気で先が長くなく、後継ぎがいなかった事から嫡男でありながら家を継ぐ事ができなかった木戸孝允を養子とする事を思いつき、昌景に養子縁組の話を持ちかけたのでした。
こうして、木戸孝允は桂家を7歳で継ぐ事となりましたが、すぐに養父、養母ともに亡くなってしまったため、再び和田家で養育される事となり、のんびりと育てられました。
こうして10歳になると武士としての教育を受ける事となり、藩士・岡本権九郎が萩城下に開いていた向南塾に入って経書の句読を、明倫館の武道教師・内藤作兵衛に入門して柳生新陰流の剣術を、八条流の師家・仙波喜間太からは馬術を学びました。
この頃、元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となり、実父に「もとが武士でない以上、人一倍武士になるよう粉骨精進せねばならぬ」と言われ、剣術修行には人一倍精を出したと言われています。
しかし、父、母、姉など相次いで家族を失い悲しみに襲われ体調を崩していましたが、このままではいけないと長州藩の若き藩士として気を持ち直し、私費で江戸へ留学する事を決意し、江戸の三大道場の一つ斎藤弥九郎道場の門下生となりました。
神道無念流剣術の免許皆伝を得て、入門一年で練兵館塾頭をつとめるまでとなり、藩命で帰国するまで5年間、練兵館の塾頭をつとめ、剣豪の名を天下に轟かせ江戸で多くの志士たちと交流を重ね、長州藩の尊攘派のリーダーへと成長していきました。
藩の命令によって京都に上った木戸孝允は、京都で久坂玄瑞たちとともに破約攘夷活動を行い、正藩合一による大政奉還および新国家建設を目指しました。
長州藩は京において中央政界を牛耳る存在となっていましたが、八月十八日の政変で京都から追放されてしまいました。
そんな中、有名な池田屋事件が起こり、本来であればその場に木戸孝允もいたはずでしたが、同志が集まっていなかった事から近くの対馬藩邸へ行っていたため事件に巻き込まれる事はありませんでした。
その後、坂本龍馬の斡旋で薩長同盟を締結し、大政奉還を経て長州藩の復権に成功し薩長主導による武力倒幕を成し遂げ、新政府を樹立します。
新政府では、総裁局顧問、外国事務係、参与となり、「五箇条の御誓文」の起草に参画し、大久保利通らとともに版籍奉還の実現に尽力しました。
しかし、大久保利通の独裁体制に不満を抱き対立し、次第に政府中枢から遠ざかっていくようになりました。
もともと病弱で、長年の心労によって心の病を患ってしまい、西南戦争の最中、明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を残してこの世を去りました。