江戸時代初期に活躍した狩野派の絵師で、京狩野の後継者として活躍した人物です。
氏を千賀、幼名を彦三といい、山雪の号以外にも「蛇足軒」「桃源子」「松柏山人」などがあります。
狩野山雪は九州肥前国に生まれ、父親に連れられて大阪へ出てきましたが、16歳の時に父親が亡くなってしまいます。
その後、世話をしたのが僧侶をしていた伯父でした。
狩野山雪が持っている画才を伸ばせる場所として最適と判断した伯父は、当時、豊臣家の絵師として活躍していた狩野山楽に弟子入りする事を勧めました。
こうして、狩野山楽の内弟子となった狩野山雪は瞬く間にその画才を開花させ、山楽の娘と結婚して狩野姓を名乗るようになり、名も平四郎と改めました。
山雪を名乗るようになったのは今でも定かとなっていませんが、遅くとも30代半ばには用いていたと言われています。
師である山楽が亡くなると、豊臣から徳川の時代に移り変わる際に二つに分裂した狩野派の一つである京狩野派を率いる立場として活躍を続け、妙心寺、天祥院、東福寺などのための画作など京狩野派において山楽時代からの重要な庇護者であった九条家の下で京の重要な仕事に携わっています。
しかし、江戸狩野派が手掛けた京都御所障壁画制作に参加しなかった事で、狩野一派の中での地位を低下させる事となり、山楽の弟が起こした金銭トラブルによって未決囚を入れる牢屋に幽閉されてしまいます。
その後、九条家の尽力によって出獄する事はできましたが、この時の心労が祟ってか、出獄して間もなく亡くなってしまいました。
そんな狩野山雪の作品は垂直や水平、二等辺三角形を強調した幾何学的構図で知られており、実に多くの作品を残しています。
古画への深い造詣に基づきながら伝統的な画題を独自の視点で再解釈する斬新な画面構成という独自性が再評価されています。
また、山雪が草稿を手がけ、息子・永納が完成させた「本朝画史」は日本最初期の画家列伝として知られています。