江戸時代初期に活躍した狩野派の絵師で、「江戸狩野」の始祖として知られ、江戸幕府の御用絵師として狩野一族の地位を不動のものとした事で知られています。
早熟の天才肌の絵師として評価されており、江戸城、二条城、名古屋城などの公儀の絵画制作に携わり、大徳寺、妙心寺などの有力寺院の障壁画も制作し、掛軸なども含め多くの作品を残しています。
そんな狩野探幽は、狩野孝信の長男として京都で生まれ、幼い頃から天才的な画才を発揮していました。
その事はわずか11歳で徳川家康に謁見を許され、16歳で幕府の御用絵師となったという事実が証明しています。
はじめの頃は偉大なる祖父・狩野永徳風の戦国武将が好む画面からはみ出さんばかりの豪快な筆致の桃山絵画を中心に描いていましたが、宗元画や雪舟を深く学び、線の肥痩や墨の濃淡を適切に使い分け、画面地の余白を生かした淡麗瀟洒な画風を展開するようになります。
狩野探幽は余白も一つの空間と捉え、ただ何も描かない無意味な白ではなく、そこに空間を感じ取れるように描いているのが特徴で、伝統的な表現手法と土佐派などのやまと絵や古画などの表現も取り入れており、多くの絵師たちが模写するまでになりました。
しかし、探幽が生み出した余白の美は多くの絵師たちが空間を捉えずただ模写するだけであったため、その魅力が失われてしまいました。
また、狩野探幽は狩野宗家でありましたが、弟に狩野宗家を継がせ、自身は鍛冶橋狩野家を起こし、「鍛冶橋探幽」と呼ばれていました。
こうして狩野探幽は、大阪城や二条城などの壁画を手掛け、日本画壇の最高峰に君臨し、亡くなるまで精力的に活動を続けていました。