現在の京都府で生まれた江戸時代中期に活躍した絵師です。
円山応挙の高弟として有名で、長沢芦雪と共に高い評価を受けていました。
長沢芦雪とは対照的な円山応挙の画風に忠実で、応挙との合作や模写作品も数多く手掛けました。
花鳥画や美人画を得意としており、作品の7割近くに年記を入れており、落款も墨画や淡彩の軽い作品を除いて生涯一貫して楷書できっちり書かれています。
京都の根付彫職人の子として生まれた駒井源琦は、姓は駒井、本姓は源、名は琦という事で駒井源琦と表記される事が多く、字は子韞(しおん)と言いました。
円山応挙にいつ師事したのかは定かではありませんが、現在確認されている最も初期の作品は『後三年合戦絵巻』の模本で、今日までに伝わる駒井源琦の作品の大半は40代以降の作品で、小品が多く大作は珍しいとされています。
駒井源琦は『平安人物誌』では、20名載る絵師のうちの一人に選ばれており、これには円山応挙をはじめ、伊藤若冲、池大雅、与謝蕪村、呉春、曾我蕭白らの名が並んでいる事から、駒井源琦が高い技量を持ち、一流の絵師であった事が分かります。
また、晩年の体力が衰えた円山応挙の絵具を溶いていたとされ、絵具溶きは絵師にとってとても重要な作業の一つであったため、応挙からも絶大な信頼を得ていた事が分かります。
そんな駒井源琦ですが、彼自身も晩年は病気がちで、趣味であった菊の手入れもままならない事もあり、円山派の跡取りである円山応瑞の後見人役を望まれていましたが、丸山応挙が亡くなった2年後にこの世を去ってしまいました。