幕末から明治期に活躍した日本画家で、狩野派という室町時代から続く日本絵画史上最大の画派の最後を飾った人物として知られています。
積極的に西洋の技法を取り入れ、空気遠近法や明暗対比の効果の技法を巧みに操り、これまでになかった日本画の創造をめざした画家で、今日の日本画があるのも狩野芳崖がいたからこそと言われています。
長府藩狩野派の御用絵師だった狩野晴皐の息子として生まれた狩野芳崖は、幼名は幸太郎といい、名を廷信(ながのぶ)、雅道(ただみち)と名乗っていました。
幼い頃から絵の才能に長けており、少年時代に残した作品も数十点が現存しています。
狩野芳崖が生まれた狩野家は、桃山時代に狩野松栄から狩野姓を許された松伯に起源を発し、狩野芳崖はその8代目となります。
そのため、父の跡を継ぐために父も学んだ木挽町狩野家に19歳で入門し、勝川院雅信に学びました。
勝川院雅信から画塾を終了した証として「勝海雅道」の号と名を与えられ、父の修行仲間で当時画塾で顧問役をつとめていた三村晴山の紹介により、近くで塾を開いていた佐久間象山と出会い、その薫陶を受けています。
ちなみに佐久間象山を慕うあまり、その書風も真似するほどであった言われています。
こうして日本画家として十分な実力を身につけた狩野芳崖は、藩から父とは別に30石の禄を給され、御用絵師として江戸と長府を往復する生活を送るようになります。
しかし、幕末は動乱期に入り、この頃は戦勝祈願の絵馬「武内宿禰投珠図」「馬関海峡測量図」などを描き、当時の社会と密接した活動を行っていました。
そのため、明治維新後は禄を失い貧窮したため、画家として復帰する事がすぐには叶わず、養蚕業や文具店などを行いますが失敗し、生活の糧を得るため不本意ながら南画風の作品や、近所の豪農や庄屋の屋敷に出向き、襖や杉戸絵を描く日々が続きました。
そんな中、友人たちの勧めで上京しますが状況は変わらず、日給30銭で陶磁器の下絵を描いて暮らしていました。
それを見かねた橋本雅邦や木村立嶽の紹介で、島津家雇となり、月給20円を支給されて3年かけて「犬追物図」を制作し、安定した生活を手に入れました。
日本美術を高く評価していたアーネスト・フランシスコ・フェノロサとの出会いによって日本画の伝統に西洋絵画の写実や空間表現を取り入れた、新・日本画の創生を試みるようになります。
その後、鮮やかな西洋顔料を取り入れた「仁王捉鬼図」が鑑画会大会で一等となった事で受けた依頼をさばききれないほどの人気画家となります。
また、この作品は日本画の可能性を示したとして東京美術学校設立の契機となり、東京美術学校の教官に任命されていましたが、肺を患っており、東京美術学校開校を前にしてこの世を去ってしまいました。