和歌山県出身の大正~昭和時代に活躍した日本画家です。
自由な発想と大胆な画風で異色的作家として注目を浴び、日本画の新たな可能性を示酸し、桁はずれの大画面や躍動する水の世界は昭和の動乱期をそのまま描いたかのような心を写した作品と評価されています。
川端龍子は本名を昇太郎といい、呉服商を営む家庭に生まれました。
しかし、11歳の時の倒産し、一家で上京しますが生活は一向に裕福になりませんでした。
そんな中、幼い頃にこいのぼり職人の技を見て自分もこんな絵が描きたいという気持ちを思い出した川端龍子は、読売新聞社が「明治三十年画史」を一般募集したのを知ると、30作品も応募します。
応募した30作品の中で2点が入選し賞金を得た事で、本格的に画業で生計を立てていこうと決心します。
こうして、本格的に画家として活動を始めた川端龍子は、当初は白馬会絵画研究所および太平洋画会研究所に所属して洋画を描いていました。
憧れの地であるアメリカへ渡り、画家として成功しようとたくさんの作品を描きますが、東洋人が描いた洋画など誰も見向きもしませんでした。
厳しい現実を目の当たりにした川端龍子は、ボストン美術館で鎌倉期の絵巻「平治物語絵巻」を見て、日本画の美しさに感動し、帰国すると日本画に転向しました。
独学で日本画を習得し、4年という短い期間で日本美術院同人となるほどの実力を身につけ、これまでの日本画にはない構図や色使いの作品を発表していくようになりましたが、当時の日本画の主流は「床の間芸術」と呼ばれ、繊細で優美な作品がもてはやされていました。
そのため、川端龍子の作品は粗暴で鑑賞に耐えないといわれていたようです。
そんな評価に納得のできなかった川端龍子は青龍社を創立し、独自の道を貫き通しました。
青龍社では巨大画面に展開する鮮やかな群青の海と白い波との鮮烈なコンストラスト、激しくぶつかり合う水と水や波しぶきが印象的な「鳴門」という作品で、大作主義作家として名を広め、日本画壇の異色の存在とし有り続けました。