広島県出身の日本画家で、優れた水墨画を多く残した事で知られていますが、常に新しい表現に挑み続けていたため、その作品は一人の画家が描いたものとは思えないほど多彩で多くのファンを魅了する画家の一人として挙げる事ができます。
繊細で精緻な描写の花鳥画、山水画はもちろん、情感のこもった歴史人物画、抽象的な表現による水墨画など、どの作品も高い描写力と表現力を見る事ができます。
日本芸術会会員、日展評議員として東京画壇を牽引した事も児玉希望の大きな功績として挙げる事ができます。
幼い頃から絵の手ほどきを受けていた児玉希望は、13歳の頃には伝統を重視した写実的な画風を身につけており、その才能が期待されていました。
上京し、川合玉堂に師事してから数年経ったある日、画壇の登龍門であった帝展で初入選となり、以後入選を続け、最高賞である特選を受賞するまでになります。
こうして活躍の舞台を新文展、日展へと広げていき児玉希望の名は知れ渡っていきます。
戦後は伊東深水、矢野橋村らとともに日月社を結成し戦後の日本画のあり方を模索し自由な表現を追及するようになり、画風が様々なものに変化していき、試行錯誤を経て最後にたどり着いたのが水墨画でした。
そのため児玉希望の水墨画は南画や歴史画に見られる古典的な日本の表現方法で描かれたものから、光と影を取り入れた西洋的な表現で描かれたもの、そして抽象的な表現方法の水墨画を描きました。
「水墨画だけは素人には絶対に描けるものではない。もし描いたとしてもそれは墨で描いた絵に止まり古来の水墨画とは自ら別のものである」と児玉希望は語っている事から自身がどれだけ試行錯誤し、努力してこの画風を築きあげたのかを感じる事ができます。