茨城県出身の明治~昭和初期に活躍した日本画家です。
横山大観、下村観山、菱田春草らと共に、岡倉天心のもとで日本画の近代化につとめた事でも知られています。
その作風は初期の頃は岡倉天心の指導で歴史画や歴史人物画を中心に制作していましたが、のちに深い自然観察に基づいた四季風景や花鳥などを多く残しました。
晩年では脳内出血によって麻痺が残り、利き手ではない左手のみで制作を行うようになり、「左武山」と称されました。
また、左手だけで描くようになった頃の作品は仏画が多く、現在でも高い評価を受けています。
木村武山は旧笠間藩士だった父親を持ち、その父は笠間銀行(現・常陽銀行)を設立し、頭取となった人物で、幼い頃から英才教育を受けて育ちました。
そのため、2歳の頃から地元の南画家・桜井華陵に師事し、12歳の頃には「武山」の号を用いて作品を描いていました。
この「武山」という号は木村武山の地元である笠間のシンボル「阿武山」に由来しています。
東京美術学校では下村観山の強い影響を受け、画家としての人生を下村観山と共に歩ようになります。
一方で、川端玉章の画塾・天真社でも学んでいました。
東京美術学校を卒業後も同校にとどまり、日本画研究科へ進み、平泉中尊寺金色堂修復に助手として参加しています。
その後、日本美術院に参加し活躍を見せますが、日本美術院が経済的に破綻をきたしてくると岡倉天心らは茨城県にある五浦へ移転し、それに同行しました。
木村武山の代表作の多くはこの五浦時代に描かれたもので、晩年に描くようになる仏画もこの頃から描き始めました。
岡倉天心が亡くなると、下村観山と共に美術院を再興させ、経営者・評議員・中心的画家として終生まで美術院に出品を続けました。