常陸国河内郡寺内村(現・茨城県稲敷市)出身の幕末~大正時代に活躍した日本画家です。
名は敬忠といい、通称は藤吉郎といいます。
父・宗庵は漢方医で、漢学の素養もあり近所の子弟に教えていたといいます。
父は幼い頃からの楓湖の絵の才能を見抜き、江戸に出て浮世絵師・歌川国貞に弟子入りを頼みましたが、断られ帰国しましたが、2年後に再び江戸を訪れ、鳥取藩の御用絵師・沖一峨の画塾で学ぶ事を許され、楓湖はそこで華やかな色彩感覚を学びました。
沖一峨が亡くなると佐竹永海の画塾に入り5年後には塾頭となり、実力を伸ばしていきましたが、尊王論(そんのうろん)という王者を尊ぶ思想の尊皇運動に転じており、勤皇画家として知られ天狗党の乱が起きるとこれに参加、幕府軍に敗れて帰郷しました。
再び江戸に出て、佐竹永海のもとで画業に専念しますが、明治維新後、歴史人物画を極める為に永海の許しを得て菊池容斎に入門し、歴史画を学ぶ一方で生活の糧として輸出商アーレンス商会の依頼で、輸出用七宝の下絵なども描いています。
また、宮内省より出版された欽定教科書『幼学綱要』において全7巻61図の挿絵を描き一躍名を轟かせ、その姉妹編といえる『婦女鑑』(全6巻)でも挿絵を担当し、私塾・安雅堂画塾を設立して後進の指導に尽力し、速水御舟、今村紫紅、小茂田青樹など、次代の活躍者を多数輩出しました。