江戸時代を代表する俳人。俳聖として世界的にも知られる。
本名、松尾宗房。
1644年に伊賀上野の郷土の家に生まれた。1662年頃、藤堂藩の藤堂良忠に仕えていた時、俳諧に親しむようになった。28歳の時に、初の撰集「貝おほひ」を伊賀天満宮に奉納。その後、上京して俳号を桃青と改め、33歳(1677年)にして俳諧師の免許皆伝となり宗匠となった。
当時の俳諧では、保守的・形式的なものから軽妙・闊達さ、機知や華やかさを競う句がもてはやされていたが、これに限界を感じ、俳号を芭蕉と改め、静寂の中の自然の美や魂の救済などを詠み込んだ杜甫の詩境に共鳴し、自然や人生の探求が刻み込まれた独自の俳句を目指していった。
1680年、住居を日本橋から深川に移し、庵を結んだ。その時、バショウを植えたところ見事な葉がつき評判となったことから「芭蕉庵」と称するようになり、自身の号も「芭蕉」(はせお)としたと伝えられている。
1683年には俳諧撰集「虚栗」(みなしぐり)を刊行した。翌84年に、江戸から郷里である伊賀上野へと、「野ざらし紀行」の旅にでて最初の紀行文を記した。続いて87年に「鹿島紀行」、吉野山・和歌の浦・須磨・明石まで巡った「笈(おい)の小文」を著わし、この旅で自身の俳諧理念である「風雅」や旅に関する思索を深めた。この近畿から木曽路を通って帰路につく道中記が「更科紀行」としてまとめられた。
1689年3月には、芭蕉庵を売り払い、弟子の曾良を供に東北、北陸、岐阜・大垣に至るまで、行程約2400㎞、7か月間という人生最大の「奥の細道」の旅に出発した。
1690年、近江国の幻住庵に入り、幽玄・閑寂の境地を記した俳文の傑作「幻住庵記」を著わした。その後も精力的に俳諧撰集を発刊し、「わび」「さび」「しをり」「ほそみ」「軽み」などの句風を具現化している。
1694年、江戸から九州を目指すが、大阪で病に倒れ、51歳の生涯を閉じた。「旅に病んで夢は枯野をかけめぐる」は辞世の句として伝えられている。