丹波国穴太村(現・亀岡市)出身の江戸時代中期の日本画家です。
本名は藤原のち源といい、名は氏といいます。
通称を主水といい、別号に洛陽山人、一嘯、雪汀、夏雲、僊嶺などがあります。
近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖で、「足のない幽霊」を描き始めた画家とも言われています。
農家の丸山藤左衛門の次男として生まれ、10代の頃に京都の玩具商に奉公に出て、当時流行していた眼鏡絵(45度傾けた鏡に映した絵をレンズを通して覗いてみる風景画の一種)の制作に携わっていました。
その後、狩野派(鶴沢派)の画家石田幽汀の下で画を学び、更に独自に中国古画から西洋の遠近法まで幅広く研究し、花鳥を始め動物、昆虫、植物などをさまざまな角度から繊細に描写、更に装飾性を加味した「写生画」を確立しました。
近江国の三井寺円満院の祐常や呉服屋を営んでいた三井家の援助を受けて制作に没頭し、後継絵師の育成にも力を注ぎ、応挙門十哲(門下のもっとも優れた10人)とされる駒井源琦などの絵師を輩出し、円山派を形成しました。