江戸時代後期の絵師です。
通称は八兵衛といい、名を守象といいます。
号は祖仙、如寒斎、霊明庵があり、屋号の花屋も用いています。
独自の画風を追求し、養子・森徹山へと連なる森派の祖と言われています。
また、猿画を描かせたら日本一とも言われています。
絵師・森如閑斎の子として生まれ、幼い頃から絵に囲まれた生活をしていました。
その環境も手伝って、絵が好きな少年となり、狩野派の勝部如春に弟子入りします。
時は流れ、師・勝部如春は狙仙の才能を認め、「長崎に行って私の代わりに勉強して来い」とオランダ画が流行していた長崎へと向かいました。
長崎に移り、オランダ人から西洋画を教わると、その才能を発揮し、周りからも一目置かれる存在になります。
ある日、知人から猿をもらい、庭木につないで仕草や表情をスケッチし、それを見た誰もが「本物より優れている」と褒めました。
しかし、ある猟師がその絵を見た時に「飼いならされた猿だ。野生の猿はこんな仕草はしない」と言われ、野生の猿をどうしても描きたい衝動に駆られた狙仙は、野猿が多く生息している山に籠る事を決意しました。
山に登ると小屋を設けて、数年に渡って野生の猿を観察し、納得がいくまで数千枚の写生画を描きました。
その絵をもって動物画を描かせたら日本一と言われていた円山応挙の下へと足を運び、絵を見てもらおうと試みますが、門前払いをされてしましました。
半ば、押し付けるように置いていった絵を見た円山応挙はその絵に驚嘆し、技法を真似るようになります。
以後、狙仙への援助をするようになり、狙仙の画家としての知名度は高くなっていきました。
狙仙の絵は彼が亡くなってからブームになり、高値で取引されるようになりました。
これに目をつけた画工・寉山(かくざん)をはじめ、狙仙の絵を模写し、偽の落款を押して売りさばく者が現れました。
現在、狙仙の作品といわれるものには多くの贋作や真意不明の作品が混じっています。