江戸時代中期に活躍した絵師で、円山応挙の高弟として知られています。
長沢芦雪とも表記され、別号に千洲漁者、千緝なども用いています。
丹波篠山青山下野守家臣・上杉彦右衛門の子として生まれた長沢蘆雪は歴史を辿る資料が少ないため、いつごろ円山応挙に弟子入りしたのか定かになっていませんが、残された作品から25歳の頃には円山応挙に弟子入りしていた事が分かっています。
この蘆雪という号は「芦花両岸の雪、煙水一江の秋」という芦も雪も白一色という意味合いである禅語からとったと考えられており、蘆雪という号を用いるようになってから氷型の枠に入った「魚」という印を用いるようになります。
なぜこのような印を用いるようになったのかといいますと、修業中のある冬の朝、身も凍るような寒さの中、池の中で張った氷に閉じ込められている魚を見かけ、陽が上った頃に改めてその池を見てみると、氷が溶けた先に自由に泳ぎ回る魚の姿を目にしました。
この出来事を応挙に話をしたところ、応挙から「苦しい修業時代も段々と氷が溶けるが如く画の自由を得るものである」と諭された事がきっかけでこの印章を生涯使い続けたといわれています。
そんな長沢蘆雪の作風ですが、師である応挙の高度な作風を完璧に身に着けた卓越した描写力に加え、師とは対照的な大胆な構図で奇抜で機知に富んだ、奔放で独特な画風が特徴で、同時代の曽我蕭白、伊藤若冲とともに「奇想の画家」「奇想派」などと称されるようになります。
この自由な発想は師・応挙の代わりに紀州の寺に絵を描きに行った事がきっかけとされており、滞在中に多くの作品を残している事から、紀州ならではの雄大な自然や空気に触れた事で生み出されたと考えられています。
円山応挙から一目置かれ、可愛がられていた長沢蘆雪は謎の死を遂げており、毒殺や自殺など周囲の嫉妬や憎しみによって奪われたのではないかといわれています。