江戸時代中期に活躍した日本の南画家、書家、漢詩人です。
人物画や山水画を得意とした画家で、濃厚な著色と漢画的な筆法のものが多いのが特徴です。
著書に画論『画譚鶏肋』『高陽山人詩稿』、旅先の記録である『東游日記』『熱海紀行』などがあります。
武士の家柄であった高知の商家・阿波屋の次男として生まれた中山高陽は、幼い頃から聡明で、儒学、漢詩を藩儒である富永惟安に、書を細井広沢門人の関鳳岡に、画は南画の先駆者である彭城百川学んでいました。
その後、土佐で画塾を構えていた中山高陽ですが江戸に出て開塾し、時を同じくして土佐藩の御用絵師もつとめました。
著名な文人墨客と盛んに交流し、特に交友の深かった井上金峨の賛、沢田東江の書と中山高陽の画を合わせて「三絶」と評され、江戸庶民の心を掴んでいきます。
しかし、火事で住居を失った事をきっかけに人気絶頂の中、約半年をかけて奥州に旅立ちました。
仙台・松島・平泉・山寺・象潟・酒田などを巡り、その記録を『奥游日録』に著わし、角旅先で書画や詩文を教え多くの作品を残しました。
そんな中山高陽ですが、土佐に帰る途中の大坂(現・大阪)発の船中で命を落としており、これは精神病の発作が原因ではないかと言われています。
また、中山高陽が江戸に南画を伝えた功績は大きく、門弟を通じて谷文晁が江戸南画を確立するもとになったといわれ、日本画壇の発展に大きく貢献しました。