現・京都府出身の江戸時代末期に活躍した日本の南画家です。
父親である中林竹洞の山水画様式を忠実に表現していますが、大作がほとんどない父・竹洞とは違って屏風絵の大作を残しており、父・竹洞との資質の違いを見る事ができます。
初期の作品は繊細な楷書で「竹谿」と署名しているものが見られますが、30歳の頃から楷書で「竹溪」、まれに行書で「竹渓」と署名しています。
作品は花鳥画や人物画を多く残し、父・竹洞や父の友人である山本梅逸らのモチーフを手本にしつつも、それを単に写すのではなく、的確に構成し直して独自性を生み出しました。
そのため、南画以外の円山・四条派、南蘋派、土佐派に学んでおり、写生を主とした洋画風表現を積極的にとりいれた作風を展開しました。
中林竹洞の長男として生まれた中林竹渓は父・竹洞にとって遅くに生まれた男児であったため、溺愛し、しばしば竹洞の自作に竹渓の名を記していました。
そんな中林竹渓は幼い頃から父・竹洞から画を学び、父子合作の作品を残しています。
30歳の時に長崎を旅行しており、この頃に父親の友人である山本梅逸に師事したといわれています。
また、父親が亡くなってからは作域を広げるために円山・四条派、南蘋派、土佐派も学んでおり、写実性を高めた作風を築きあげていきました。
その一方で、江戸末期の復古思潮からか、加藤清正や楠木正成などの武将を勇壮謹厳に描いた作品を多く残しています。
40歳後半になると文人画風の山水画や中国人物画が多く描いていましたが、一方で大和絵人物や季節の草花、動物もよく残しました。
晩年の山水画は明治・大正期に煎茶席の掛軸としてよく好まれ、またそれ以上に身近な草花や動物、風景などを描く景物画は、手頃な床掛けとして広く好まれました。