江戸後期の僧侶、歌人、書家。
本名、山本栄蔵(後に文孝に改名)。号は大愚。
1758年、越後・出雲崎の名主の長男として生まれる。名主見習いをしていたが、18歳で出家し、曹洞宗・光照寺に入り、善を学ぶ。22歳の時、立ち寄った備中国の曹洞宗・円通寺の和尚に従って玉島に行く。この頃に良寛大愚と名のったといわれる。その後およそ10年間の修行の後、修行の修了証である印可の偈を受け、諸国行脚の旅にでる。
1796年頃に帰郷する。その後は故郷周辺を転々として生涯を終えた。時には近隣の村里で托鉢を続けながら、村の子供たちと遊び、あるいは詩歌の創作にふけり、儒者など学者と交遊した。とくに子供たちと遊ぶのが好きで、世の中の俗事にこだわらず、名声や財産への欲望もなく、生涯寺を持たず、自らの質素な生活を示し、簡単な言葉によって庶民に分かりやすい仏法を説いた。その生涯にわたる姿勢が「人間良寛」の魅力となって、村人ばかりでなく日本人の心のふるさとのような人として、現代にも生き続けている。
詩集に「草堂集」、歌集に弟子の貞心尼編「蓮(はちす)の露」がある。
良寛の「たくほどは 風がもてくる 落葉かな」、「散る桜 残る桜も 散る桜」などの句は、自身の自然のまま、無欲恬淡な人生観を詠っている。
1830年1月、没。享年74歳。