長野県出身の明治~昭和時代前期に活躍した詩人、作家です。
詩集『若菜集』で浪漫派詩人として大きな業績を残し、『破戒』で自然主義の小説家として認められた人物で、『中央公論』に連載された『夜明け前』は自伝的藤村文学の集大成として広く知られています。
家は相模国三浦半島津久井(現・神奈川県横須賀市)発祥の三浦氏の一族で、代々本陣や庄屋、問屋をつとめていたそうで、父親は17代当主で平田派国学者でした。
幼い頃から父親より『孝経』や『論語』を学んでおり、上京すると吉村忠道の伯父・武居用拙に寄宿していた事もあり、『詩経』などを学びました。
当時の様々な進学校で学び、明治学院普通部本科に入学した島崎藤村は在学中に馬場孤蝶、戸川秋骨と交友を結び、共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼受けました。
卒業後は『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、20歳の時に明治女学校高等科英語科教師として活躍する一方で、北村透谷、星野天知の雑誌『文学界』に参加し、同人として劇詩や随筆発表するようになります。
そんな中、教え子で許嫁のいる佐藤輔子を愛してしまった事で教師としての自責のためキリスト教を棄教し、辞職します。
再び女学校に復職する事になりましたが、北村透谷の自殺、兄の不正疑惑、佐藤輔子の病死と不幸が続いた事で深く落ち込み、女学校を辞職しました。
こうして詩作に打ち込むようになり、第一詩集『若菜集』を発表して文壇にその名が知られるようになりました。
『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠と並び称されるようになりましたが、新しい詩集が発表される事はなく、詩作から遠ざかっていきます。
島崎藤村は結婚して子供を授かりますが栄養失調により3人の子供を失ってしまい、更に妻も4人目の子供を出産した後に亡くなってしまいました。
そのため、兄の娘・こま子が家事手伝いとして島崎藤村の世話をしていましたが、次第に二人は愛人関係へと発展していき、こま子は子供を身ごもってしまいました。
こま子との関係から逃げるようにフランス留学を決行しましたが、帰国後に再び関係が再熱してしまいました。
それでも島崎藤村は慶應義塾大学文学科講師となるなど名声は高くなっていき、こま子との関係も清算しようと『新生』でこま子との事を告白しました。
もちろん、こま子は日本にいられなくなってしまったため台湾へ渡る事となり、二人の関係に終止符が打たれました。
『新生』を発表した事で島崎藤村には批判の声も上がりましたが、その潔さと作品の内容から稀有の恋愛小説と評価され、その後も作家として活動を続けました。
『破戒』は島崎藤村の作家としての地位を確立し、『夜明け前』は自分の父親をモデルに描いた島崎藤村が完成させた最後の長編小説として朝日文化賞を受賞するなど作家として誰もが羨むような道を歩み始めます。
その後も海外での活躍も目立つようになってきましたが、『東方の門』を連載しはじめてまもなく、脳溢血により作品が未完成のままこの世を去りました。
また、国民歌謡の一つとして知られている『椰子の実』は、柳田國男が伊良湖の海岸に椰子の実が流れ着いているのを見たというエピソードをもとに書いたもので、島崎藤村自身はこの地に行った事がありませんでした。
それでもその情景を感じさせてくれる島崎藤村の表現力の高さは素晴らしいもので、現在でも愛唱されている事が島崎藤村の技量の高さの大きな証明と言っても過言ではありません。