鳥取出身の明治~昭和大に活躍した日本画です。
本名は藤太郎といいます。
号は盛虎、のち静湖と号し、のちに菅楯彦と号しました。
父は鳥取の倉吉藩士菅大治郎で、画才があり、四条派の画家塩川文麟に師事し、盛南の画名をもったほどの腕前でした。
大阪市の初めての名誉市民賞を受賞しています。
幼い頃から父が絵を描く姿を間近で見ており、12歳の時に父親が倒れ、父に代わって着物の図柄や提灯、看板などの絵を描いて生計を助けようとしましたが、当時まだ子供だった菅には注文がほとんどなく、貧窮な生活に悩みながらも独学で画技を習得し、16歳の時に日本美術家協会展に応募し協会賞を受賞、その作品が買上げとなり菅楯彦と号すようになり、画家としての道を歩み始めました。
大和絵をはじめ円山四条派・狩野派・浮世絵など幅広く研究し、歴史に深く関心を寄せ、国学を鎌垣春岡に、漢学を山本憲に学び、歴史、郷土芸能や古今の民衆風俗を主題にした作品を多く手掛けるようになり、名声を高めていきました。
さらにその名を知らしめる事になったのは日本三大名妓・富田屋の八千代との結婚でした。
八千代との結婚生活は7年という短い期間で八千代の病死という形で終わってしまいますが、八千代が亡くなった後も、後妻はとらず、まるで八千代が乗り移ったかのような画筆になったそうです。
現在では歴史風俗画を描き続けた菅楯彦の画業を伝えようと、鳥取県倉吉市が創設した菅楯彦大賞展が開催されています。