京都出身の明治~大正時代に活躍した日本画家です。
本名は謙といい、幼名は百太郎、初号は百僊といいます。
鈴木派の祖・鈴木百年の長男で、弟に鈴木百翠、鈴木万年がいます。
また、上村松園の最初の師としても知られています。
父・百年から画を学びますが、絵に関して指導されるのが嫌だったともいわれ、父のおとなしい画風とは対照的な勁健・豪放な作風と性格で「曾我蕭白の再来」と評され、今蕭白というあだ名で呼ばれる事もありました。
本格的に画家を志すようになったのは20歳の時で、父の盛名からその実力を正しく評価されず、正阿弥楼で一日千枚描く席画会を企画し、これを聖子王させた事によって周囲に認めさせたといわれています。
また、気性の荒い性格で、同時期の画家としばしば争ったりしましたが、一方で豪快な中にしみじみとした人情味もあり、画学校で教授を務めた時は生徒の受けは非常に良かったそうです。
作画へのこだわりも強く、「刷毛のような細工ものは芸術家の使うものではない、画家は筆だけで仕上げるべきである」と通常刷毛を必要とするところは筆を3、4本並べて握り、刷毛の用に使い、筆に力が入りすぎて途中で紙が破れたりする事がありました。
京都府画学校の講師を勤め、退職後も松年塾を開くなど後進の指導にも尽力し、当時の京都画壇の重鎮として活躍しました。