江戸時代に活躍した絵師で、本姓を三浦、名を暉雄(てるお)といいました。
その生涯について残された資料が少なく、伊勢生まれとされていましたが、最近の研究で京都の「丹波屋」と号する商家の子として生まれたという事が明らかになりました。
同じ頃に活躍した絵師には円山応挙、与謝蕪村、池大雅などがいますが、彼らとは違った「奇想天外」「グロテスク」「異端」といった言葉で表現される当時の流行とはかけ離れた作風で知られています。
また、多くの奇行や逸話が各地で残されており、そのほとんどが面白おかしく伝えられています。
曽我蕭白は若い頃から画家を志し、高田敬輔や望月玉蟾に師事したといわれていますが、正式な文献にはその名が記されていません。
しかし、高田敬輔とその門人たちの特徴的な技法を用いている事などから、少なくとも高田敬輔の画風を学び、独自の画風を築き上げたのではないといわれています。
その画風とは細密で精確な描写能力と対象の動性の的確かつ大胆で空間を把握した構図にあります。
また、顔料の性質を熟知している事も鮮やかな色彩から伺う事ができます。
山水画、花鳥画、人物画など多くの作品を手掛けており、当時はあまり人気のない画風でしたが、幕末から明治にかけて人気が高まり多くの贋作が作られました。
また、曽我蕭白の力作や傑作の半分以上がフェロノサの手によって国外へ持ち出され現在はボストン美術館に収蔵されています。