島根県出身の明治~昭和時代前期に活躍した日本画家です。
本名は大治郎といい、別号に豊文、頼章があります。
実家は本陣を務めるほどの庄屋でしたが、明治維新後に没落したため、若い頃から上京して画家になりたいという思いが強かったものの、なかなか実現する事ができず、広島北部を中心に旅絵師として稼いだお金を実家に仕送りする日々が続きました。
一時期指導を受けた森寛斎の絵を手本にして、ほとんど独学で絵の腕を磨き、再び画家を志し、36歳の時に上京しました。
また、画家としての出発はかなり遅かったので、何度も頼み込み、断られる事を繰り返し、やっとの思いで四条丸山派の川端玉堂に入門しましたが、先輩たちより「田舎者、中年者、駆け出し者」と嫌がらせを受けたといいます。
しかし、長い年月をかけて絵の実力を磨いて生み出された作品は、たちまち日本美術協会展、帝展、文展で評価され、数々の賞を受け、日本画壇に認められる存在になりました。
主に山水画を得意としトラを描いた傑作で知られ、関東大震災を機に広島に移り、後進の育成に力を注ぎました。