澤庵(たくあん)は法名を宗彭(そうほう)といいます。
江戸時代初期に活躍した臨済宗大徳寺派の高僧です。
また澤庵は有名な小説「宮本武蔵」の中で武蔵と接点があったとされており、記録はないが武蔵の師匠として描かれている事でも知られています。
また書画、詩文、茶道なども嗜んでいたといわれています。
澤庵は現在の兵庫県豊岡市で武士の子として生まれました。
父が奉公していた山名家は織田信長の侵攻に遭い、織田家家臣の羽柴秀吉の攻撃で滅亡しており、その時に父は浪人となっています。
澤庵は10歳の頃に出石の唱念寺で出家しています。
それからおよそ4年後に出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事し「秀樹」と改名しています。
その後、希先西堂が亡くなると出石城主の前野長康が大徳寺から宗鏡寺の住職として薫甫宗忠を招いたことから澤庵は薫甫宗忠に師事する事になりました。
後に薫甫宗忠が大徳寺住持となり上京すると澤庵もこれに従い大徳寺に入ると三玄院の春屋宗園に師事し、「宗彭」と改名しています。
その後、薫甫宗忠と共に佐和山城に入っています。
しかし関ヶ原の戦いで佐和山城が攻め落とされると、薫甫宗忠と共に脱出に成功したのちに斬首された石田三成の遺体を引き取り、三玄院で手厚く弔ったといわれています。
沢庵はその後、文西洞門に師事するが文西が亡くなると一凍紹滴に師事し、32歳の頃に「沢庵」の法号を得ています。
後に沢庵は大徳寺首座となり、2年後に大徳寺第154世住持に出世しますが、出世などに興味のない沢庵は大徳寺を去っています。
江戸幕府が成立すると寺院法度などにより寺社への締め付けが厳しくなっていました。
沢庵はこの時期に大徳寺の僧をまとめ反対運動を行っており、幕府はこれを幕命に従わないとして津軽へ流罪となっています。
その後、徳川秀忠が亡くなると天海、柳生宗矩などの尽力で沢庵は許されています。
徳川家光が上洛すると謁見した後に、家光のそばに仕えるようになります。
沢庵はその後、73歳の頃に夢という一字を書に残し、江戸で亡くなりました。
弟子たちに「墓碑を建ててはならぬ」と残していますが、東京都品川区にある萬松山東海寺に沢庵の墓があります。