山口県出身の大正~昭和時代に活躍した俳人です。
季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる自由律俳句のもっとも著名な俳人の一人で、国内に句碑が500基以上もあり、「昭和の芭蕉」とも呼ばれています。
山口県の大地主の家の長男として生まれた種田山頭火は本名を正一といい、幼い頃に父の女遊びに悩んだ母が自ら命を絶った事が原因で心に深い傷を負います。
そんな出来事があり、祖母に育てられた種田山頭火は私立周陽学舎(現・山口県立防府高等学校)に入学すると学友らと文芸同人雑誌を発行し、地元の句会によく顔を出しており、このことからも俳句を本格的に始めるようになった事が分かります。
その後、私立周陽学舎を首席で卒業し、私立東京専門学校(現・早稲田大学)へ入学しますが、新しい環境では親しい学友もいなかったため、神経衰弱となり中退して故郷へ戻ります。
そんな中、実家では父親が事業に失敗し、代々続く屋敷を売却して古くから続く酒造場を買収し、種田酒造場を開業しました。
一方で種田山頭火自身は結婚をして子供を授かり、家業を手伝う日々を送っていました。
こうして10代の頃から親しんでいた俳句などの文芸活動で生計を立てようと、「山頭火」を名乗って翻訳や評論を書くようになり、俳句を本格的に学ぶようになると俳句誌に掲載されるようになります。
実力が認められた種田山頭火は、俳句誌の選者の一人となるなど、活躍を見せていましたが、実家の酒造りが2年連続で失敗し、家業は倒産となってしまいました。
この事をきっかけに家族はバラバラになり、種田山頭火も妻子を連れて夜逃げ同然で九州へ渡りました。
生計を立てるために古書店を開業しますが、後に失敗し、上京して図書館で働くようになりました。
しかし、この苦しい状況下に種田山頭火の妻は耐え切れず、離婚する事となり、この事がきっかけで神経衰弱に陥り、種田山頭火は図書館を辞める事になります。
自暴自棄になった種田山頭火は泥酔し、路面電車の前に飛出し、命を投げ出そうとしました。
路面電車は急停止し、種田山頭火は一命をとりとめましたが、路面電車が急停止した事で転倒した乗客たちの怒りが種田山頭火に向けられました。
その場に居合わせた顔見知りの新聞記者によって騒ぎは収拾し、禅寺へとその身柄が引き渡されます。
こうして種田山頭火は出家して耕畝(こうほ)と改名し、若くして亡くなった俳人・尾崎放哉の作品世界に共感した事で句作への思いが高まり、法衣と笠をまとうと鉄鉢を持って熊本から西日本各地を回りました。
行乞(ぎょうこつ)の旅は7年にもおよび、この旅の中でたくさんの歌が生まれていき、「層雲」に投稿を続けていましたが、体調がすぐれず、山口県小郡の小さな草庵「風来居」に身を寄せ、松山市に移住して「一草庵」を結庵し、その生涯を終えました。
旅を愛し、山河の中に生き、酒をこよなく愛した種田山頭火は、生涯に約8万4千句を残しましたが、その易しい言葉で語る彼の句は、束縛の中で生きる現在人の共感を呼び、徐々に人気が高まってきています。