尾張国愛知郡中村郷出身の戦国時代~安土桃山時代にかけて活躍した武将で、織田信長亡き後に天下人となった人物で、関白、太閤をつとめた事で知られています。
また、百姓から天下人になった事から「戦国一の出世頭」と評されていますが、豊臣秀吉の出生に関しては諸説あり、真相は明らかにされていません。
豊臣秀吉は茶の湯とも深く関係しており、信長が茶の湯を政治的な意味を多く含んだものとして利用していた事が大きく影響しています。
信長は屈服した相手に服従の証として、名物茶器を献上させたり、強制買収する「名物狩り」を行って権力を誇示したのに対して豊臣秀吉は違った形で茶の湯を政治に利用しました。
それは、信長に仕えていた千利休を茶頭として信長の茶の湯を継承する一方で、関白就任の際、禁中において茶会を開いたり、黄金の茶室を造らせるなど、茶の湯によって天下人の権威を示した事でした。
そして、これまでの茶の湯はごく一部の人たちの間で行われてきたものを、大衆に広め、茶の湯の普及にも大きく影響を与えました。
豊臣秀吉は尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされており、はじめは今川氏の直臣飯尾氏の配下である引馬城支城の頭陀寺城主・松下之綱に仕え、木下藤吉郎と名乗っていました。
その後、信長に仕官すると頭角を現し、浅井長政の裏切りによって浅井氏との攻防を繰り広げた小谷城で戦いにおいて、3千の兵を率いて夜半に清水谷の斜面から京極丸を攻め落すなど浅井・朝倉との戦いに大功をあげます。
こうして、浅井氏の領地であった北近江三郡に封ぜられて、「今浜」の地を「長浜」と改め、長浜城の城主となり、家内で有力だった丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつをもらい受け、名字を羽柴に改めました。
また、年貢や諸役を免除し、旧浅井家臣団や石田三成などの有望な若者を積極的に登用していきます。
その後も信長の家臣として素晴らしい働きを見せていた豊臣秀吉ですが、信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り、山崎の戦いで光秀を破りました。
その後、織田家内部での勢力争いに勝った事で、信長の後継の地位を得て大坂城を築きます。
関白・太政大臣に就任すると豊臣姓を賜り、平安京大内裏跡に朝臣としての豊臣氏の本邸を構え「聚楽第」と名付けました。
こうして、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たし、太閤検地や刀狩、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進め、天下人としてその名を日本中に知らしめました。
その後、後継者に指名していた鶴松(秀吉と淀殿の子)が病死し、甥・秀次を家督相続の養子として関白職を譲り、自身は太閤と呼ばれるようになりましたが、全権を秀次には譲らず、実権を握り二元政をとっていました。
そんな中、秀頼(秀吉と淀殿の子)が生まれ、「関白の座を逐われるのではないか」と秀次は次第に情緒不安定となっていき、最終的には豊臣秀吉と意見が食い違い、秀次は切腹してこの世を去ってしまいました。
その後、豊臣秀吉は明(中国)への軍事行動を決行し、明への道案内を朝鮮に拒否された事から、朝鮮を制圧する文禄の役が勃発します。
朝鮮はほとんどが無防備、無警戒に近い状態だったため、戦況は優勢に見えましたが、明からの援軍、朝鮮義兵の参加によって戦況は劣勢となり、休戦して一時帰国します。
しかし、講和交渉決裂によって慶長の役が勃発しましたが、しばらくして豊臣秀吉は病気で息を引き取っており、その知らせを受けた日本軍が撤退するという形でこの戦いは終結しました。
このように豊臣秀吉は天下統一という偉業を成し遂げ、日本という国の基礎を築いた人物として大きな功績を残しており、豊臣秀吉が行った政策は次の江戸幕府にも継承されていきました。
また、政治面だけではなく能楽や茶道といった文化面の発展にも大きな影響を与えた事も高く評価されています。