俵屋宗達は通称を野々村宗達といい、号に伊年、対青軒などがあります。
江戸時代初期に活躍した画家ですが、サインの入った作品は数多くあるのですが未だに生没年さえ定かになっていない謎が多い画家として知られています。
研究者の間では慶長から寛永年間に活動したといわれており、京都で「俵屋」という当時絵屋と呼ばれた絵画工房を率い、扇絵を中心とした屏風絵や料紙の下絵など手掛ける町の絵師として活躍していました。
その画風は源氏物語や伊勢物語などの古典からとった装飾性の強い独自の画風で、のちに尾形光琳が継ぎ、琳派として現代に至るまで大きな影響を与えています。
俵屋宗達は単なる町の絵師ではなく福島正則の命令で行われた平家納経の修復に関わり、その内3巻の表紙と見返しの計6図を描いたとされており、一流の文化人であった烏丸光広や本阿弥光悦らの書巻に下絵を描き、嵯峨本の出版にも関与したとされています。
こうした事から、高い技量を持っていた事が伺えます。
また、町の絵師としては異例の法橋の位が与えられており、一流の絵師として認められていた事も分かります。
亡くなってから開かれた「俵屋宗達記念会」は、わずか5日間の会期でありながら小林古径、平福百穂、速水御舟ら若い画家たちに強い影響を与え、この事を受け多くの作品が重要文化財に指定されました。
その中でも特に有名なのが17世紀初頭の京の豪商の依頼により制作されたと推測される「風神雷神図屏風」です。
この作品は金箔が一面に貼られる屏風の中に、右側から黒雲に乗り風を操りながら舞い降りる風神の姿を、左側から力強く雷太鼓を打ち鳴らす雷神の姿を描いた俵屋宗達の最高傑作といわれ、尾形光琳や酒井抱一が模作を残している事でも知られています。