田能村竹田(たのむらちくでん)は豊後国(現・大分県)出身で幕末を代表する天才文人画家として知られています。
中国古典や漢詩の世界に精通している他にも、多くの文人や学者などと交流していた事でも知られています。
田能村竹田は豊後国(現・大分県)で岡藩の藩医の家に次男として生まれますが、家督を継がずに儒教研究者としての道を選択しました。
後に西日本を代表する文人となり南画の先駆者として後進に大きな影響を与えた人物となる田能村竹田ですが、生まれた頃は藩の財政難もあり、まともな俸禄を受け取る事ができませんでした。
そのため、生涯にわたり生活資金を工面することに苦労していたといわれています。
そんな田能村竹田は、11歳の頃に藩士の子などを教育する学校である由学館(ゆうがくかん)への入学を命じられ学問を専攻し、極めて優秀な成績をおさめていました。
そこで詩文などの師である唐橋君山(からはしくんざん)がその才能に気づき、詩文結社竹田社・米船社の同人に迎えています。
しかしこの頃に耳と目の病気を患い、後に持病となってしまい、しばらく経過した頃に母と兄が帰らぬ人となるなど、不運に見舞われます。
その後、兄を失った事で田能村家の嫡男となり医業へと進む中で、画への興味が失せる事はありませんでした。
そのため、狩野派にも負けず劣らず漢画で知られていた淵上旭江(ふちがみきょこう)から学んでいた地元画家に学ぶようになります。
それでも飽き足らず、狩野派・古土佐・円山派・朝鮮画・西洋画・なども学び、様々な様式を合体させ新しい様式を目指した事で知られる江戸の谷文晁(たにぶんちょう)からも通信教育も受けており、画への思いがどんどん強くなっていきました。
その結果、医業への道を選ばず自身の画法と学問に磨きをかけるために病気療養を兼ねて藩に辞表を提出します。
37歳で隠居すると多くの文人や学者などと交流を深め、各地を巡りながら中国絵画を学ぶなど、中国文人趣味の世界を満喫しつつ繊細で美しく、教養の高さを感じることの出来る作品を多く残していきました。