田中納言(たなかとつげん)は江戸時代中期頃から画家として活動していた人物で、復古大和絵派の中心人物としても知られている他、非業の死を遂げたという事でも知られています。
田中訥言は、田沼意次(たぬまおきつぐ)が征夷大将軍の側近で将軍の命令を老中などに伝える役目を担う御側御用人の役職に就き、その地位を確立し、幕政改革に励んでいた頃に愛知県で生まれたとされています。
田中訥言は古土佐派様式の研究に励み、復古大和絵派の礎を築いた人物としても知られています。
また複数の師に指導を受けていますが、当初は狩野派の流れを汲み、写生的な作風で知られ、丸山応挙(まるやまおうきょ)の師でもある石田幽汀(いしだゆうてい)に師事しています。
その後、石田幽汀がこの世を去ると京都を訪れ宮廷画家の土佐光貞(とさみつさだ)に師事しており、京都御所造営への参加や古画を通じて純日本的といえる大和絵の様式を研究し、古土佐派の復興を唱えています。
田中訥言は伝統的様式を重んじる古土佐派の復興を唱えるばかりではなく、自身の画力も優れていると評価され、後世の模範であると称されています。
現在、確認できる田中訥言の作品はおよそ300点以上あり、奈良県立美術館、出光美術館、名古屋市美術館、徳川美術館などのその作品を見る事ができます。
しかし、晩年では理由は定かではありませんが失明によるショックで、自身で舌を噛んで絶命したとされています。