新潟県出身の大正~昭和時代に活躍した日本画家です。
ルノワールやゴーギャンに傾倒し、伝統的な日本画に西洋絵画の重厚なマチエールや合理的な空間把握、幾何学的な構図などを取り入れた新たな日本の絵画の創造を目指していた事で知られています。
土田麦僊が描く作品の線は細く、繊細で鋭いため「鉄線描」と名付けられ、まっすぐで迷いのない線で描かれているのが特徴です。
その代表作に「大原女」というものがありますが、この作品が出品された際、下図の状態で完成していない作品でした。
画家が完成していない作品を出品する事は極めて異例の事でしたが、「大原女」の下図は当時の京都画壇を唸らせました。
また、この作品が完成したのは出品されてから4年後でした。
新潟の農家の三男として生まれた土田麦僊の本名は金二といい、画家を志して京都の鈴木松年に入門しました。
しかし、病気で一度帰郷する事となり、次に師事したのは竹内栖鳳でした。
竹内栖鳳は「形から入って、感覚を移す」という教えをモットーとしており、土田麦僊も徹底的に写生を学んでいます。
そのため、竹内栖鳳に入門してから4ヶ月で京都の展覧会で入選を果たします。
新しい日本画を目指した土田麦僊は、前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マルク)を結成し、黒猫会に参加しており、この頃の作品にはゴーギャンの影響を見られました。
また、小野竹喬、榊原紫峰、村上華岳などと国画創作協会を設立し、設立してからは国画会を中心に活動を行っていきます。
国画会は若手日本画家たちが西洋美術と東洋美術の融合と新しい日本画の創造を目指して結成されたもので、近代における日本画革新運動の代表的なものとして日本美術史上、重要なものとして考えられています。
土田麦僊は西洋画の研究のため、1年半にわたりヨーロッパへ留学しており、フランス、イタリアを旅するうちに日本画、洋画という枠を捨て去っていきました。
そして、イタリアで見たルネサンスのフレスコ画に出会った事で、その素朴で美しい線に惹かれ、土田麦僊の作風は完成しました。
しかし、これから自らの画境を拓こうとしていた矢先、すい臓がんによってこの世を去ってしまいました。