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高山樗牛

高山樗牛
高山樗牛(1871~1902)
高山樗牛は山形県出身の日本の文芸評論家、思想家で、明治30年代の言論を牽引していた人物の1人として活躍しており、若い頃から絵画、芸術、美、文学について多くの疑問や考えを述べている事でも知られています。

高山樗牛は庄内藩藩士であった斎藤親信の次男として生まれており、本名は斉藤林次郎といいます。
生後間もなく、父の兄で警視庁に勤務していた高山久平の養子となりました。
その後、福島中学(現・安積高校)、東京英語学校(現・日本学園中学校・高等学校)、仙台旧制第二高等学校(現・東北大学)を経て東京帝国大学(現・東京大学)で哲学を学んでいます。

高山樗牛は学生の頃にゲーテの小説を翻訳した事からペンネームとて樗牛を使用しており、この樗牛という名前は中国の荘子の書が由来とされています。
学生時代の活躍は翻訳だけではなく、匿名で応募した平家物語を題材とする自身の小説『滝口入道』が読売新聞の懸賞小説で入選を果たすなど文学に才能を見せていました。
ちなみに『滝口入道』は恋模様を華やかでありながらも辛く悲しい思いが溢れ出てくる作風に多くの人が魅せられ話題となっています。

それからは、仙台旧制第二高等学校の教授に就任し、当時、日本最大の出版社として名高かった博文館の編集主幹となりました。
この時、日本主義を鼓舞する評論を書き、感受性を大切にするロマン主義的な美文も書いており、若い世代に広く支持されています。
またこれらの活動が認められたのか夏目漱石らとともに文部省から美学研究のための海外留学を任命されており、帰国後は京都帝国大学(現・京都大学)の教授を約束されていました。しかし、肺結核を患い入院となった事で留学を辞退し31歳という若さでこの世を去ってしまいました。

高山樗牛年表


1871年 山形県で生まれる
1872年 高山家の養子となる
1893年 東京帝国大学文科大学哲学科に入学する
1984年 読売新聞の懸賞小説に『滝口入道』が入選し、新聞連載される
1896年 東京帝国大学文科大学を卒業する
第二高等学校の教授となる
1897年 校長排斥運動をきっかけに辞任する
1900年 文部省から研究のため海外留学を命じられる
1901年 留学を辞退する
1902年 論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与される
病状が悪化し12月24日に死去

1871年 山形県で生まれる

1872年 高山家の養子となる

1893年 東京帝国大学文科大学哲学科に入学する

1894年 読売新聞の懸賞小説に『滝口入道』が入選し、新聞連載される

1896年 東京帝国大学文科大学を卒業する

00000年第二高等学校の教授となる

1897年 校長排斥運動をきっかけに辞任する

1900年 文部省から研究のため海外留学を命じられる

1901年 留学を辞退する

1902年 論文『奈良朝の美術』により文学博士号を授与される

00000年病状が悪化し12月24日に死去


高山樗牛代表作

『美的生活を論ず』

『わが袖の記』

『滝口入道』

『時代管見』

『文芸評論』


肉筆色紙
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