高山樗牛は山形県出身の日本の文芸評論家、思想家で、明治30年代の言論を牽引していた人物の1人として活躍しており、若い頃から絵画、芸術、美、文学について多くの疑問や考えを述べている事でも知られています。
高山樗牛は庄内藩藩士であった斎藤親信の次男として生まれており、本名は斉藤林次郎といいます。
生後間もなく、父の兄で警視庁に勤務していた高山久平の養子となりました。
その後、福島中学(現・安積高校)、東京英語学校(現・日本学園中学校・高等学校)、仙台旧制第二高等学校(現・東北大学)を経て東京帝国大学(現・東京大学)で哲学を学んでいます。
高山樗牛は学生の頃にゲーテの小説を翻訳した事からペンネームとて樗牛を使用しており、この樗牛という名前は中国の荘子の書が由来とされています。
学生時代の活躍は翻訳だけではなく、匿名で応募した平家物語を題材とする自身の小説『滝口入道』が読売新聞の懸賞小説で入選を果たすなど文学に才能を見せていました。
ちなみに『滝口入道』は恋模様を華やかでありながらも辛く悲しい思いが溢れ出てくる作風に多くの人が魅せられ話題となっています。
それからは、仙台旧制第二高等学校の教授に就任し、当時、日本最大の出版社として名高かった博文館の編集主幹となりました。
この時、日本主義を鼓舞する評論を書き、感受性を大切にするロマン主義的な美文も書いており、若い世代に広く支持されています。
またこれらの活動が認められたのか夏目漱石らとともに文部省から美学研究のための海外留学を任命されており、帰国後は京都帝国大学(現・京都大学)の教授を約束されていました。しかし、肺結核を患い入院となった事で留学を辞退し31歳という若さでこの世を去ってしまいました。