江戸神田佐久間町出身の明治~大正時代にに活躍した日本画家です。
本名は吉川義復(よしまた)といい、通称は良助といいます。
21歳の時に父の歌友であった渡辺光枝の養嗣子となり、吉川家を離れ渡辺姓を継いでいます。
息子は俳人の渡辺水巴です。
牛込の質屋に奉公に出ましたが、画ばかりを描いていたため断られてしまいました。
その後、好きな画を仕事にしようと考え、菊池容斎に弟子入りします。
入門して3年間は絵筆も握らせてもらえず、容斎直筆の手本でひたすら習字をさせられ、町で見かけた人物の着物の柄、ひだの様子がどうであったか聞かれ、答えられないと大目玉を食らったといいます。
この体験によって、省亭は見た者を目に焼き付けるようになり、写生力を養っていきました。
美術工芸品輸出業者の松尾儀助に才能を見出されると、輸出用陶器などを扱っていた日本最初の貿易会社・起立工商会社に就職し、濤川惣助が手掛ける七宝工芸図案を描きました。
また、この仕事を通じて西洋人受けする作品を作るようになり、日本画家として日本で初めて渡欧したといわれています。
帰国後は西洋風の描写を織り交ぜた花鳥図などを中心に制作するようになりました。
これをきっかけに海外の展覧会で発表する機会が増え、省亭の作品は当時の来日外国人に好まれ、多くの作品が国外の国外美術館・博物館に所蔵されています。