江戸時代後期の武士、画家です。
田原藩士である父・渡辺定通の長男として生まれました。
父が病気がちで医薬に多くの費用がかかったため、幼少期は貧しく、苦しい生活を送っており日々の食事もままならず、弟や妹は次々に奉公に出されていき、少年の崋山は生計を助ける為に得意であった絵を売って、生計を支えていました。
その後、谷文晁に入門し、画の才能が大きく花開き20代半ばには画家として著名となったことから、ようやく生活も安定していきました。
画を描く一方で、学問にも励み、田原藩士の鷹見星皐から儒学(朱子学)を学び、昌平坂学問所に通い佐藤一斎から教えを受け、後には松崎慊堂からも学ぶようになり、佐藤信淵からは農学を学ぶなど、様々な事を勉強しました。
また、田原藩士としても活躍しており年寄役末席(家老職)に就任し、優秀な藩士の登用と士気向上のため、格高制を導入し、家格よりも役職を反映した俸禄形式とし、合わせて支出の引き締めを図ったり、農学者大蔵永常を田原に招き、稲作の技術改良を行い、鯨油によるイネの害虫駆除法を導入し、大きな成果につながったといわれています。
しかし、蛮社の獄という言論弾圧事件で宅捜索の際に発表を控えていた『慎機論』が発見され、陪臣の身で国政に口出ししたということで自宅の一室で謹慎する事を命ぜられました。
謹慎生活を送る崋山一家の貧しい生活を心配した門人・福田半香の計らいで江戸で崋山の書画会を開き、その代金を生活費に充てる事になりましたが、生活のために絵を売っていたことが幕府で問題視されたと噂になり、藩に迷惑が及ぶことを恐れた崋山は「不忠不孝渡辺登」の絶筆の書を遺して、池ノ原屋敷の納屋にて切腹しその生涯を終えました。