愛知県出身の日本の洋画家、版画家で、教育者です。
父親が漢方医の医師資格取得に必要な西洋医学を学ぶために上京し、東京浅草で幼少期を過ごしました。
小学校を卒業して、東京の木版工房主・桜井虎吉に師事し、木口木版の彫版技術を学びますが、木版職人にあきたらず油絵の勉強をするために、東京美術学校西洋画科に入学しました。
卒業後は石井柏亭らと美術雑誌「方寸」を創刊し、「創作版画」を提唱し、それまでの版画の「下絵を描く」「彫る」「刷る」作業が分業制だったものを全ての作業を一人で行うというその後の版画に大きな影響を与えました。
その後、フランスに留学してヨーロッパの風土の中、油彩画や版画を熱心に勉強、制作をします。
帰国してからは、大正時代の児童美術教育、教科書のお手本をいかに忠実にまねをして描くかで成績が決まっており、それに疑問を感じていた山本は自由画教育運動を始め、文部省(国)を相手に戦いました。
今ではごく当たり前に子供が自由に絵を描けるのも、この運動があったからです。
また、以前ロシアで見た農村工芸品を日本の農民が冬の農閑期に作って売れば豊かになると考え、手初めに父の住んでいた長野県神川村から農民美術運動を始め、10年ほどで日本に広まったのですが、満州事変が始まると平和産業である農民美術は目の敵にされ壊滅していまいました。
現在では、組織として残るのは長野県農民美術連合会のみとなってしまいました。
そして、戦時中は食べるものもなく、美術品の価値がない時代だったので、薪が無くなると過去に彫った木版を薪の代わりに燃やしてしまったので、現在、山本の彫った版木は殆ど存在していません。